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Fear of Technology

宇田川敦史 Atsushi Udagawa

テクノロジーは、日常的に利用されるものであるほど、その存在が忘却されている。これが、テクノロジーに対する無意識の信頼に支えられていることは、前回述べたとおりである。そして、その信頼が裏切られるような事態が顕在化するとき、その忘却は振り子のように揺り戻される。そこに現れるのは、テクノロジーへの「恐れ」ともいうべき反応である。

今年顕在化したFacebookの個人情報流出問題は、その例のひとつである。わたしたちは、Facebookのタイムライン上の情報がどのようなテクノロジーによって選別されているか、あるいは、Facebookの広告がどのようなデータに基づいて配信されているか、普段意識することはほとんどない。しかし、ひとたび「個人情報が流出した」と報道されると、そのテクノロジーがブラックボックスであったこと、その信頼に根拠がなかったことが、突如としてあらわになるのだ。FacebookのCEO、マーク・ザッカーバーグに対する非難には、このことへの「恐れ」が投射されているようにみえる。これまで意識することなく便利に利用していたサービスが、よくわからないテクノロジーを駆使してわたしたちの日常生活を脅かす存在へと逆転してしまったからだ。

この「個人情報の流出」自体は、5年前(2013年)に発生したものである。ある研究者が開発した性格診断アプリが、当時のFacebook仕様の脆弱性を悪用し、アプリ利用者と、その友達のデータを大量に収集した。データは、プロフィールなどの属性情報と「いいね!」などの行動履歴を含むもので、各ユーザーの嗜好を分析できるものであった。そしてこのアプリの開発者は、これらのデータを、選挙関係の広告配信を行うコンサルティング業者に横流ししていたのだ。この業者が、2016年のアメリカ大統領選挙の広告配信にも関係していたことで、特にアメリカで大きな話題を呼んだわけである。

したがって悪意があったといえるのは、アプリ開発者および広告配信業者のほうであり、Facebook自身ではない。また、この流出を引き起こしたアプリの仕様に関する問題は、すでに4年前(2014年)に対策が取られ、テクニカルにはすでに再発が抑止されている。一方で、アメリカ議会におけるザッカーバーグへの非難とそれに対する言説の一部は、「よくわからないテクノロジーを操ってユーザーの政治信条をねじ曲げる広告に加担した首謀者」といった論調のものであった。

本来責められるべきは、ザッカーバーグが「テクノロジーを操って」いることではなく、プラットフォームとしての社会的責任を十分に果たしていないことであるはずだ。Facebookはもはや、Googleと同様、事実上代替のきかない社会インフラに近い。前回の例をふたたびもちいれば、水道のような存在である。水道は、公共のインフラである以上、水道水に毒物が混入しうるシステムであってはならない。制度の面でも、テクノロジーの面でも、それを抑止できるようにあらかじめデザインすることが、インフラの社会的責任だからである。Facebookは、もちろん自らが進んで毒物を流したわけではない。しかしFacebookは、悪意のあるユーザーが、毒物を含む広告を配信できないようにあらかじめデザインする責務を負っているのだ。Facebookへの批判は、その意味でなされるべきだろう。

ところが、多くの批判は、Facebookのテクノロジーのわからなさ自体にも向けられている。これはいったい何に対する恐れなのだろうか。Facebookのようなプラットフォームは、わたしたちの身体をネットワークへと接続することでサービスを実現している。それはすなわち、機械状のシステムに、わたしたちの主体性が取り込まれていくことを想像させる。わたしたちは、水道水を飲んでいるだけでなく、いわば身体が蛇口と直結させられたまま、水道システムの一部に飲み込まれているような状態なのだ。わたしたちが恐れるのは、蛇口からなにが吸い出されているのか、わからないままに水を飲んでいるからなのかもしれない。

恐れの正体に向き合うために必要なのは、テクノロジーの設計者を悪者扱いし、疎外することではない。問われているのは、わたしたち自身が蛇口とどのようにつながりたいのか、つながるべきなのか、ということである。それはすなわち、社会全体として、望ましいプラットフォームとのかかわり方をいかにデザインできるのか、を問うことに他ならない。そのとき、テクノロジーは、恐れの対象ではなく、その可能性を広げるものにもなりえるのだ。

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