Art&culture – 5: Designing Media Ecology https://www.fivedme.org Thu, 07 Oct 2021 07:00:27 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.6.10 https://www.fivedme.org/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-5dme-32x32.png Art&culture – 5: Designing Media Ecology https://www.fivedme.org 32 32 Charta77とチェコ・アンダーグランドカルチャーの地下水脈[江上賢一郎 -4-] https://www.fivedme.org/2018/07/15/charta77%e3%81%a8%e3%83%81%e3%82%a7%e3%82%b3%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%80%e3%83%bc%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%89%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%9c%b0%e4%b8%8b%e6%b0%b4/ Sat, 14 Jul 2018 18:36:12 +0000 https://www.fivedme.org/2018/07/15/charta77%e3%81%a8%e3%83%81%e3%82%a7%e3%82%b3%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%80%e3%83%bc%e3%82%b0%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%89%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%81%e3%83%a3%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%9c%b0%e4%b8%8b%e6%b0%b4/ Charta77とチェコ・アンダーグランドカルチャーの地下水脈
Charta77 & Czech Underground Cultural Movement during Communist Regime

江上賢一郎 Kenichiro Egami

「百塔の街」と呼ばれるチェコの美しき都、プラハ。この街を南北に流れるヴルタヴァ川に架かるカレル橋を渡り坂道を登っていくと、赤い屋根の続くプラハの街並みを一望できる王宮前広場に出る。ここにはチェコの政治を代々司ってきたプラハ城がそびえており、その一角に国立美術館(Salm Palace)がある。2018年2月にこの場所を訪れたとき、ふとあるバナーが目にとまった。それは十数名の男女のモノクロ集合写真の展覧会バナーで、「Charta Story & Charter 77 in pictures」というタイトルがついていた。内容は見当もつかなかったが、写真に写っている人びとの不敵な笑みに引き寄せられ美術館に入り、チケットを購入した。展示室に入ると、3つの部屋に古い手紙、モノクロ写真、絵画、手紙などが交互に並べられ、アーカイブとして展示されていた。入り口には「Charta77について」いう説明書きがチェコ語と英語で書かれていた。

「Charta Story」国立美術館のバナー(撮影:江上賢一郎)

「Charta Story」展覧会場(国立美術館 https://www.ngprague.cz/より)

「Charta77(憲章77)」とは、共産主義一党独裁下の1977年、当局によって逮捕、投獄された人々の釈放と人権の遵守を求めた声明文のことだ。後のチェコ共和国初代大統領となった劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルや、詩人のパヴェル・コホウトらが起草し、西ドイツの新聞に発表されたこの宣言は、厳しい社会的抑圧の続くプラハで生まれた市民的不服従の表明だった。憲章77に関わった人々の紹介とともに、その当時のチェコのアンダーグラウンドカルチャーの様子も展示されていた。

実際、「憲章77」が生まれた直接のきっかけは、その前年の76年春にチェコ当局がアンダーグランドで活動するミュージシャン、芸術家たちを逮捕・勾留したことだった。その年の2月、詩人で美術批評家のイヴァン・イロウス(Ivan Jirous)がプラハ郊外で結婚式を挙げた。この結婚式は当時、地下活動をしていたミュージシャンやアーティストたちが一堂に会するイベントでもあった。最も有名なのは、イヴァン自身がディレクターを務めていた「The Plastic People of the Universe」で、68年にベーシストのミラン・ラヴァサ(Milan Hlavsa)によって結成されたサイケデリック・ロックバンドだった。当時、西側の音楽は非合法であり、自由に演奏できる場所は皆無だったが、彼らは地下室、工場などの秘密の場所で演奏を行っていた。フランク・ザッパやベルベット・アンダーグランドに影響を受け、サイケな曲調に共産党やソビエトの全体主義に対するユーモラスかつ皮肉めいた歌詞を加えて、ヴァイオリンやサックス、そしてチェコの民族音楽のリズムを加えた実験的かつ演劇的な演奏を行っていた。

The Plastic People of the Universe (共産主義博物館 http://muzeumkomunismu.cz/cs/より)

イヴァン・イロウス(右から2人目、国立美術館HPより)

展覧会に展示されていたイヴァンの結婚式の写真は、結婚式という名前を借りた無許可フェスティバルの様相を呈していた。ミュージシャンたちは農家の納屋を会場がわりに自由に実験的な演奏をしたり、パフォーマンスを行った。イヴァンは前年に「A Report on the Third Czech Musical Revival」と呼ばれるチェコのアンダーグランドカルチャーについての覚書を地下出版で出している。そこでは、アンダーグランドであることの定義について、美的で創造的な生活の追求、全体主義社会への抵抗の意思、体制から押し付けられた文化の拒否などが簡潔明瞭に書かれており、この手刷りの冊子は当時の芸術家たちによって手渡しで読み継がれていった。彼はまた「druhá kultura(The Second Culture)」と呼ばれる野外のフェスティバルを開催するが、警察によって解散させられ、公序良俗を犯したとして結果的に逮捕されてしまう。

政治家でも、反体制活動家でもないミュージシャンたちを逮捕したことにショックを受けた人々は、彼らの釈放と人権の尊重を要求する「憲章77」を起草し、裁判所前につめかけた。厳しい検閲や圧力にもかかわらず、この声明には241人の知識人、芸術家、聖職者、運動家たちの署名が集まった。声明そのものは反体制というよりも、人権尊重を唱える穏やかなものだった。しかし、当局は署名に加わった人びとを強権的に取り締まり、逮捕、弾圧を行った。哲学者のヤン・パトチカは取り調べ中に亡くなり、多くの人びとがオーストリアや国外に亡命する結果になってしまった。それでも、この「憲章77」は68年の「プラハの春」事件の後、抑圧的な体制に逆戻りしていくチェコ社会において、人々が自由や民主主義を求める声を内部から表明した画期的な出来事であり、89年の民主化への道の発端となっていく。

展覧会は、絵画、写真、映像記録、ポスターなどが展示されており、表には出てこなかった当時のチェコのアンダーグラウンドカルチャーシーンの雰囲気が伝わってくる。皆ロングヘアーで、男性は長いヒゲ、よれよれのシャツとジャケットを身につけている。当時の共産主義政権下では、個人が自由に考えや感情を表現することだけでなく、服装、ヘアースタイルなど個人の身なりそのもの逸脱が危険視されており、ロングヘアーやヒゲを生やすこと自体が、西側以上に切実な社会的異議申し立ての表明でもあった。

特に印象に残っているのは、芸術家たちが頻繁に行っていた秘密の会合、室内パーティの写真だ。自宅や知人の家に毎晩集まり、外では自由に表明することができなかったであろう政治、芸術、社会問題について誰もが豊かな表情で語り合っている。また、郊外のキャンプ場でのコンサートでは、野外に打ち捨てられたドラム缶を叩いて演奏したり、廃屋で即興的なポエトリーリーディングや演劇を行なっていた。個人の家、廃屋、郊外の森など様々な場所が、秘密の表現の場へと姿を変え、パフォーマンス、演奏、インスタレーションなどそれぞれの表現が同居し、混じり合い、不思議な熱気を帯びていた。どんな抑圧的な時代や社会であっても、自由な生と表現を求める人々とその精神の地下水脈が脈々と流れていること。尾行、監視、逮捕、拷問など身に差し迫る危険のなかにあっても、自らの考え、表現を表明していった人々がいたこと。今の日本社会を生きる私にとって、当時のチェコ・アンダーグラウンドカルチャーの姿は、より切迫した意味と重みを伴って伝わってきたのだった。

当時のライブイベントの記録写真(撮影:江上賢一郎)

*The Plastic People of the Universe 1969-1985
https://www.youtube.com/watch?v=YjWzA_kxNqQ

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オレンジ・オルタナティブと街の小人たち [江上賢一郎 -3-] https://www.fivedme.org/2018/04/13/%e3%82%aa%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%82%bf%e3%83%8a%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%96%e3%81%a8%e8%a1%97%e3%81%ae%e5%b0%8f%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1-the-orange-alternative-and-the/ Fri, 13 Apr 2018 00:31:57 +0000 https://www.fivedme.org/2018/04/13/%e3%82%aa%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%b8%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%82%bf%e3%83%8a%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%96%e3%81%a8%e8%a1%97%e3%81%ae%e5%b0%8f%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1-the-orange-alternative-and-the/ オレンジ・オルタナティブと街の小人たち
The Orange Alternative and the Dwarfs of Wrocław City

江上賢一郎 Kenichiro Egami

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ブロツワフの旧市街(撮影:江上賢一郎)

今年の2月、ポーランド東部の古都ブロツワフにアーティスト・イン・レジデンスで滞在した。パステルカラーの家々に囲まれた美しい広場(Plac Solny)で有名なこの街は、古くはモンゴル侵攻や300年に及ぶドイツ統治など中央ヨーロッパの複雑な歴史を有している。旧市街を歩いていると、街路や建物の角に小さな小人(ドワーフ)の銅像があちらこちら設置されていることに気づく。道路に寝そべっている小人、酒に酔っ払っている小人、小さなカバンを担いで旅に出ようとする小人など、これらの様々なユーモラスな小人たちは約400体にのぼり、今やこの街の観光シンボルになっている。

この小人たち、実は共産主義下のポーランドで行なわれた人々の抵抗運動に由来している。第二次大戦後、ソビエトの衛星国として共産党一党独裁体制を敷いたポーランドで、1980年以降「ニュー・カルチャー・ムーブメント」と呼ばれる運動が生まれていた。これは一党独裁や検閲に反対する学生や芸術家たちによって組織され、表現や言論の自由を求める若者の声を代弁する文化運動だった。この運動の中心人物に、ワルデマー・フリドリヒ(Waldemar Fydrych)という人物がいる。当時美術史を学ぶ学生で「将軍」というあだ名で呼ばれていた彼は、ブロツワフ大学で学生新聞を発行し、1982年に社会主義的シュルレアリズム宣言という詩を発表した。フランスのシュチュアシオニスト・インターナショナル(Situationist International)に触発されたこの宣言で、彼は権威主義的な体制に対してユーモラスで不条理な抵抗を呼びかけたが、主流の学生運動からは不真面目だと非難を浴びてしまう。そこで彼は1985年に「オレンジ・オルタナティブ(Pomarańczowa Alternatywa)」というグループを設立する。これはユースカルチャー/サブカルチャーを基に様々なハプニング、アクションを行う集団で、1989年までのあいだブロツワフの路上を中心に数多くのデモやパフォーマンスを行なった。

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壁に描かれたドワーフ(撮影:トマス・シコルスキ)

彼らの活動でもっとも有名なものが、厳戒令下の街の壁に小人(ドワーフ)の絵/グラフィティを描くというアクションだ。描かれたのは一見子供が壁に落書きしたようなかわいらしい小人の絵だが、これらはすべて政府批判のスローガンを塗りつぶしたペンキの上にさらに上書きされたものだった。壁に描かれた小人たちは、次第に自由に発言できない市民の代わりに彼らの声や感情を代弁する象徴となっていった。さらに、小人の絵にはユーモラスな体制批判のメッセージが加わり、他の街にも出現するようになっていった。また1988年の「レボリューション・オブ・ドワーフス(Revolution of Dwarfs)」では、オレンジの帽子とジャケットをかぶった小人の格好で街を集団で歩き、市民と一緒になってお祭り騒ぎの行進を行なったり、翌年には「秘密警察の設立を祝う記念マーチ」と称して通りを行進し、警察が行進を止めようとすると、人々が警察に抱きつき、キスしたり、花びらを振りかける路上パフォーマンスを行なったりした。

オレンジ・オルタナティブのこれらのパフォーマンスやアクションは、体制側でもなく、また当時の民主化運動の主流であった「連帯」にも馴染めなかった若者たちをサブカルチャーの手法で惹きつけた。「開かれた路上の公式」と呼ばれた彼らのパフォーマンスの方法論は、政治的な要求やイデオロギーの代わりにユーモアや面白さを前面に押し出し(共産党のスローガンをわざと茶化して言い換えることもしばしばだった)、体制や社会システムの不条理さと仰々しさを笑い飛ばそうとした。一見バカバカしいアクションであっても、検閲や統制に締め付けられてきた人々が外に出て自由に表現や発言をし、自発的に行動ができるように勇気づけること。それが彼らの狙いだった。1989年のポーランドの民主化と同時に彼らの主な活動も終了したが、路上でのゲリラ的表現、市民を巻き込むようなパフォーマンスなど、現代のストリート・アートや2000年代の社会運動の祝祭的性格を先取りしていたといってもいいだろう。

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街にあるドワーフ像(撮影:江上賢一郎)

小人の銅像に話を戻そう。2001年に地元の美術学生によって、「オレンジ・オルタナティブ」のメモリアルとして壁に描かれていた小人を模した銅像が建てられ、以来新しい銅像が次々と街に出現していった。ブロツワフ市政による観光化の波を受け、小人の像の元々の歴史的な意味は背景に追いやられてしまったが、オレンジ・オルタナティブの活動は、検閲や密告によって自由な言論や表現が制限されていた時代に、ファンタジーとユーモアをもって路上でパフォーマンスを行った若者たちの芸術/政治運動であり、共産主義圏におけるシュチュアシオニスト的精神の一つの発露であった。

*オレンジ・オルタナティブ
http://www.orangealternativemuseum.pl/#lodz-2

*オレンジ・オルタナティブの当時の活動記録映像
https://www.youtube.com/watch?v=1DTrc_bYFaE

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都市の句読点:角打と遊歩 [江上賢一郎 -2-] https://www.fivedme.org/2018/03/20/%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e5%8f%a5%e8%aa%ad%e7%82%b9%e8%a7%92%e6%89%93%e3%81%a8%e9%81%8a%e6%ad%a9-punctuation-marks-of-the/ Mon, 19 Mar 2018 20:46:49 +0000 https://www.fivedme.org/2018/03/20/%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e5%8f%a5%e8%aa%ad%e7%82%b9%e8%a7%92%e6%89%93%e3%81%a8%e9%81%8a%e6%ad%a9-punctuation-marks-of-the/ 都市の句読点:角打と遊歩
Punctuation Marks of the City: Kakuuchi Style Drinking Culture of Fukuoka

江上賢一郎 Kenichiro Egami

私の住む福岡県には「角打(かくうち)」と呼ばれる種類の酒屋がある。外見はいたって普通の酒屋だが、店内にはカウンターがあり、平日の昼過ぎにもかかわらず近所の人たちでにぎわっている。角打とは、購入した酒をその場で飲むことができる酒屋のことだ。ビールは冷蔵庫から自分で取り出し、酒は注文すると店主がコップに注いでくれる。つまみは缶詰や乾きもの、自家製の小料理がカウンターに並べられている。1000円も出せばすぐにほろ酔い気分になる。法的には曖昧な営業スタイルだが、角打で酒を楽しむ文化は今も北九州を中心に根強く残っている。20世紀初頭、鉄と石炭の街・北九州では、八幡製鐡所をはじめとして昼夜を問わず稼働する工場が数多く存在していた。そして、そこで働く労働者たちは夜勤明けの交代や休憩のわずかな時間に角打に入り、1、2杯注文してさっと飲み干しては次の店に向かう、といった飲み方をして家路についていた。

今でもそれぞれの店には常連のおじさんやおばさんがいて、カウンターで飲んでいるとその土地の街の情景や人びとの姿を生き生きと話してくれる。その土地に生きてきた人たちの声と記憶が、酒とともに聞く側の身体にもゆっくりと染み込んでいく。言葉と身体と酒。ほろ酔い気分で角打と角打をはしごして回るうちに、昔この街に住んでいた人たちの声や姿が路地から浮かんで見えてくるような気分になる。酔いどれつつ歩くことは、都市の経験を変容させる。重たかった足が地上から徐々に離れていき、がんじがらめの街のルールがスルスルとほどけ、自分の身体と街が互いに混じり合っていく。

角打は日々の労働と暮らしのあいだに穿たれた句読点のような場所だ。仕事終わりの一杯の酒は、締め付けるような労働の規律から身体をほぐし、硬い足取りを愉快な「遊歩」に変えてゆく。そして僕たちは、この句読点のなかで想像力を回復させながら、ゆっくりと自分たちの時間のリズムを回復させてゆく。句読点なき都市は、無人工場の延長でしかない。正気の白い光が降り掛かる真昼時、角打から出てきた「遊歩者(フラヌール)」たちはゆらゆらと歩きながら路上の一つ一つのカーブを味わい、二重にぼやけた路地の上でゆっくりとしたダンスを舞い、都市の霊を呼び込む。もし、酔いつつ歩くことが、都市の歴史経験の方法のひとつだとするならば、角打とはそこに生きる/生きた人びとの記憶と出会うための最初の敷居なのかもしれない。

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アスファルトの上の解放区──都市のゲリラ音楽家 YAMAGATA TWEAKSTER[江上賢一郎 -1-] https://www.fivedme.org/2018/03/05/%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%ae%e4%b8%8a%e3%81%ae%e8%a7%a3%e6%94%be%e5%8c%ba-%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9%e9%9f%b3%e6%a5%bd%e5%ae%b6-yamagata/ Sun, 04 Mar 2018 23:09:12 +0000 https://www.fivedme.org/2018/03/05/%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%ae%e4%b8%8a%e3%81%ae%e8%a7%a3%e6%94%be%e5%8c%ba-%e9%83%bd%e5%b8%82%e3%81%ae%e3%82%b2%e3%83%aa%e3%83%a9%e9%9f%b3%e6%a5%bd%e5%ae%b6-yamagata/ アスファルトの上の解放区──都市のゲリラ音楽家 YAMAGATA TWEAKSTER
Liberation Area on the Asphalt: Urban Guerrilla Musician, Yamagata Tweakster

江上賢一郎 Kenichiro Egami

ドンマンアヌン ジョジル! ドンマンアヌン ジョジル!(金しか知らないゲス野郎!金しか知らないゲス野郎!)」

9月の深夜1時を過ぎたソウル、ヨンドゥンポ地区。南北に通る広い車道に奇妙なコールが響き渡った。一人の男が突如ライブ・バーの階段を駆け下り、路上に出て車道の真ん中で歌い始めたのだ。オレンジ色のレギンスにピンクのショートパンツ、上半身は蛍光色のシャツ、サングラスに赤十字マークの入った白い帽子というで立ちをしたその男は、両手の人差し指を立てて何かを指差す身振りを繰り返し車道に向かって走りだす。そして、その後ろには拳を宙に突き上げ、コールを繰り返しながら彼を追いかける一群。私もまた、その群れに混じって深夜の車道を駆け抜けていた。

男は、車道の上に寝そべったり、逆立ちしたりと、まるでステージの上にいるかのように踊りはじめた。遮るもののないがらんどうの直線のなかで、体がふわりと軽くなり、手足が目一杯四方に伸びていく。空間の広がりを感じると同時に、私の身体もまた大きく広くなった気分になる。深夜、車もまばらなソウルの4車線大通りの上で、韓国人も日本人も混じって一緒に踊っている。小説や映画の世界ではなく、現実に現れた一瞬の解放区。

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Yamagata Tweakster (Photo by K.Egami) 

ハーメルンの笛吹き男ならぬ、ソウルの笛吹き男。Yamagata Tweakster(ヤマガタ・トゥイークスター)ことハンバ(Hahn Vad)は、これまで様々な場所で即興的に歌い、踊り、ハプニング的状況を作り出してきた都市のゲリラ音楽家だ。ステージから客席に降り、ライブハウスから路上へ飛び出し、さらにはバスや電車、建物の中にまで入り込んでいく。また、彼は様々な社会運動の現場にも現れる。ミリャンの送電線反対運動、ソウルでの障害者権利デモ、さらには日本のデモにまで。ハウス・テクノのダンスミュージックに過激かつメランコリックな歌詞を乗せて歌い上げ、エロティックに体をよじらせて踊る。そうかと思えば、二段蹴りを繰り出しながら信号待ちのタクシーやバスの間を突き進む。それは凍てついた都市への求愛行為のようであり、同時に目の前の壁を突き破ろうとするファイティングポーズのようでもある。

Yamagataの活動が広く知られるきっかけは、2009年の「トゥリバン」闘争だ。ソウル、ホンデ地区にあるカルグックス(韓国うどん)屋の立ち退き反対運動に参加したYamagataらソウルのインディーズ・ミュージシャンたちが、店舗ビルに立てこもり毎日ライブやパフォーマンス、集会を行い、最終的に再開発会社から移転の補償を勝ち取った。暴力的な追い出しによる再開発が頻発する韓国で、アンダーグラウンドカルチャーと都市再開発への抵抗が創造的に結びつくことで住み手の権利を守った運動だ。その後、Yamagataはトゥリバンで出会った音楽家たちと「自立音楽生産組合」を立ち上げ、商業主義とは異なる音楽の生産・流通・受容の回路を作りだすことを試みる。普段はグルーヴグルマと呼ぶ自作のカラフルな屋台を引いて自分のCDや友人たちの音楽、制作物を販売しつつ、2017年9月には自らのスペース「万有引力」をオープンさせた。

Yamagataの後を追いかけ、私たちは街に張り巡らされた境界線を一緒に飛び越える。視界は開け、足は軽やかにアスファルトを蹴り上げ、両手は大きく空に伸びる。声はコンクリートに反響し、コールのこだまのなかで互いに手を取りあう。こうやって踊っていると、都市だけでなく私たち自身もまた、自動車、商業空間、私有地等の境界線によって枠づけられ、囚われてしまっていたことに気がつく。そして、路上でのダンスによって、私たちの体が本来持っていたしなやかさ、軽やかさといった自由の感覚を取り戻していく。

Yamagataは自らの声、音、そして身体そのものをメディアに変えて、分断された都市の状況に介入する。ビートのリズムで二段蹴りを繰り出し、都市の見えない壁に一撃を加える。ハプニングという手法で人々の情動をチューニングし、ユーモラスな身振りによってバラバラになった空間をモザイクのようにつなぎ合わせていく。彼と一緒に踊った人は、Yamagataの後ろに小さな小道が続いていることに気がつくだろう。それは、私たちを隔てる見えない壁に穿たれた穴であり、そこに解放された世界が一瞬だけ現れる。そして、私たちはこの一瞬の空間のなかで自由に踊り続けるのだ。

*「Yamagata Tweakster – 二段横蹴り」
https://www.youtube.com/watch?v=aresTtk01CA

*CD Journal Yamagata Tweakster インタビュー
http://www.cdjournal.com/main/cdjpush/yamagata-tweakster/1000000822

*韓国音楽ドキュメンタリー映画『Party51』
http://www.offshore-mcc.net/p/party51.html

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破壊的想像力を再稼働する[高橋聡太 -13-] https://www.fivedme.org/2016/11/12/%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e7%9a%84%e6%83%b3%e5%83%8f%e5%8a%9b%e3%82%92%e5%86%8d%e7%a8%bc%e5%83%8d%e3%81%99%e3%82%8b-restart-the-doomed-imagination/ Fri, 11 Nov 2016 20:48:46 +0000 https://www.fivedme.org/2016/11/12/%e7%a0%b4%e5%a3%8a%e7%9a%84%e6%83%b3%e5%83%8f%e5%8a%9b%e3%82%92%e5%86%8d%e7%a8%bc%e5%83%8d%e3%81%99%e3%82%8b-restart-the-doomed-imagination/ 破壊的想像力を再稼働する
Restart the Doomed Imagination

高橋聡太 Sota Takahashi

映画『シン・ゴジラ』の上映を封切日深夜0時の回でいち早く見終えた自分は、茫然自失していた。率直に言って、作品の出来には期待していなかった。わざわざ足を運んだ動機は、どうせ酷評されるなら他者の意見に惑わされる前に初回の上映をこの目で見届けようという消極的なものだった。物心ついたころから恐竜や怪獣に夢中になり「コウコガクシャになる」と言い張っていた自分を、もうそんなものに一喜一憂している場合じゃないぞと説得したかったのである。

しかし、過去の自分に引導を渡すどころか、上映後しばらくは同行した友人ともども絶句し、「えええ」「うう……」などのうめき声しか発せない赤子のような状態に戻ってしまった。深夜の新宿をふらついて頭を冷やし、すこし落ち着いてからは堰を切ったように言葉があふれ出し、夜明けまで感想戦を続けた。その日のうちに似たような現象がネット上に散見したかと思うと、その爆風は瞬く間に広がった。興行収入も、総監督の庵野秀明による人気シリーズの目下最新作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の52億円を上回り、本稿執筆時の2016年10月下旬現在で80億円を突破。観客動員数は500万人を超えている。

本作が多くの人々を驚嘆せしめたのは、これほどまでに既視感のある画面ばかりが配置された映画を、誰も目にしたことがなかったからかもしれない。劇中では初代『ゴジラ』を筆頭に、往年の特撮作品や岡本喜八や市川崑といった日本映画の巨匠による諸作、それらに着想を得た庵野自身の作品、さらには震災や原発事故の報道や、広島と長崎の写真や軍の資料映像といった、日本の危機を想起させる素材が虚実や新旧の別なくミックスされている。計算しつくされた編集と画面構成で目まぐるしく押し寄せてくる既知の奔流が、おそろしい量塊感を持つ未知の生命として現れるのだ。

そこで問われるべきは「オリジナル」のありかではなく、膨大な引用に刺激されて甦る観客それぞれの経験だ。1954年の生誕時に立ち返って再生し、自衛隊のミサイル攻撃にもびくともせず泰然とその姿を保つ巨大不明生物は、ちょうど化学反応における触媒のように、自身の本質を変えずに観客ひとりひとりの連想を加速させる。たとえば2011年3月11日を渋谷近辺で迎えた自分は、本作で東京が壊滅するさまを目にして、恥ずかしながら映画館で初めて畏怖のあまり落涙した。幼少時にまだ見ぬ大都会を破壊する怪獣たちに声援を送っていた自分が、大人になってから「もうやめてくれ」と劇場で祈ることになるとは思ってもいなかった。

クライマックスでは、天災とも人災ともつかぬ東日本大震災の惨禍をモチーフにした巨大不明生物が、撃退されるでも海に帰るでもなく、東京駅の丸の内側でメルトダウン後の原発のごとく凍結させられる。その体が静止する直前、ゴジラは半獣半人の修羅のような全身を奮い立たせ、東京駅の西側を睨みつける。その目線の先に、皇居が見据えられていてもおかしくない。奇しくも映画が公開された7月には天皇の生前退位の意向が報じられ、封切りから約1週間後には前例のない「お気持ち」放送が大々的に組まれた。劇中で何度も繰り返された記者会見の場面をなぞるような画面と、ともすれば政治への干渉とされかねないきわどい線を渡るその言葉に、本作の鍵を握る科学者がのこした「私は好きにした、君らも好きにしろ」の一言を思い出した。東京駅を空想上の炉心とする危機的思考の連鎖反応は、もうしばらく続くだろう。最後のカットでカメラがにじりよるゴジラの尾からは、人骨状の異形がおびただしく突き出ており、それはいたましい死者にも、生まれたばかりの命にも見えた。

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カシャカシャ包囲網[高橋聡太 -12-]  https://www.fivedme.org/2016/10/21/%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%83%a3%e5%8c%85%e5%9b%b2%e7%b6%b2-surrounded-by-the-casual-shooters/ Thu, 20 Oct 2016 23:43:44 +0000 https://www.fivedme.org/2016/10/21/%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%82%ab%e3%82%b7%e3%83%a3%e5%8c%85%e5%9b%b2%e7%b6%b2-surrounded-by-the-casual-shooters/ カシャカシャ包囲網
Surrounded by the Casual Shooters

高橋聡太 Sota Takahashi

はじめて自分のカメラを持ったのはいつだろう。個人的な思い出をたどると、おそらく最初に手にしたのは小学校の修学旅行に持参した、いわゆる使い捨てのレンズ付きフィルム「写ルンです」だ。旅程の序盤に訪れた八景島の水族館で、さっそく観察そっちのけで撮影にのめりこんだ。水槽のガラスにカメラ本体を密着させて魚群の動きを追い、目当ての魚が接近したらファインダーを覗いて待ち伏せ、魚影が眼前をよぎると大あわてでシャッターを切る。当然ながら、ピントが合わず光量も不十分なこの試みは失敗に終わり、後日近所のクリーニング店から返ってきた現像の出来に肩を落とした。

そんな記憶が、国立近代美術館で開催されているトーマス・ルフの写真展でよみがえった。というのも、カメラの使用が許可された展示会場内には、鑑賞よりもスマートフォンでの撮影に没頭している様子の来場者が散見したからだ。もっとも、同じ「撮影」と呼ばれる行為であっても、残り少ないフィルム数を意識して息をつまらせながらファインダーを覗いてシャッターを切るのと、ポケットからさっと取り出したスマートフォンでカメラアプリを立ち上げて画面をタップするのとでは、その身のこなしや緊張感には大きな違いがある。展示されていたルフの諸作も、私たちがしばしば「写真」と一括りにしがちな視覚的再生産技術の複層性に焦点を絞り、証明写真・暗視写真・報道写真・天体写真・インターネット上のjpeg画像などを縦横無尽にとりあげて、それぞれの特性を浮き彫りにするものだった。

しかも、ルフが投げかける「写真とは何なのか」という直球の問いと、一対一で静かに向き合うことは許されない。会場内のどこにいても、カメラアプリが発するカシャカシャとした操作音とともに、否応なく他の来場者の気配がつきまとうため、自ずと思考は周囲の人々の行為にも及んでいく。せっかくの美しいプリントをスマホで撮ってどうするのか……現物があるならじっくり目で見たほうが……いや、撮影に熱心だからといってちゃんと見ていないと決めつけるのも狭量すぎる……等々、自問自答を繰り返した。

そもそもこうしたすれ違いは、普段の生活のなかでも時折自分をわずらわせていた。飲食店で料理を撮るのはアリかナシか。演奏中のミュージシャンにカメラを向けるのはどうだろう。観光地を訪れたときに同行者が自撮り棒を取り出したら、自分だったらちょっと引いてしまうかもしれない。スマートフォンのカメラは、撮るか撮らざるかの決断をあらゆる機会に迫ってくる。ゆえに、撮影と同時に何らかの意思が漏れ出てしまうことも増え、それをどこかはしたないものだと思ってしまうからこそ、自分は苛立ってしまうのだろう。

同時に、撮影願望のいわばネガであるところの「何を撮らないのか」という判断も、ある種の自己主張となってしまう。ちなみにトーマス・ルフは、今回の企画展のために受けたインタビューにて「最後にカメラのシャッターを押したのはいつですか?」という質問にこう答えている。

2003年です。家族サービスで娘の写真を撮ることはありますが(笑)、作品としてはそれが最後ですね。(http://thomasruff.jp/texts/d_interview_2/)

疑似シャッター音のサラウンドのなかで展示室内の椅子に腰をかけて逡巡しつつ、どうしても美術館内での撮影に抵抗のあった自分を説き伏せて一枚だけ写真を撮り、それをTwitterにアップして会場をあとにした。

https://twitter.com/sotahb/status/771306045503184896

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景勝と人造の入り江[高橋聡太 -11-] https://www.fivedme.org/2016/05/15/%e6%99%af%e5%8b%9d%e3%81%a8%e4%ba%ba%e9%80%a0%e3%81%ae%e5%85%a5%e3%82%8a%e6%b1%9f-the-cove-of-mimetic-beauty/ Sun, 15 May 2016 03:43:01 +0000 https://www.fivedme.org/2016/05/15/%e6%99%af%e5%8b%9d%e3%81%a8%e4%ba%ba%e9%80%a0%e3%81%ae%e5%85%a5%e3%82%8a%e6%b1%9f-the-cove-of-mimetic-beauty/ 景勝と人造の入り江
The Cove of Mimetic Beauty

高橋聡太 Sota Takahashi

常磐線を乗り継いで茨城を経由して福島方面へ向かうと、日立市にさしかかるあたりから車窓に広がる海岸線の雄大な景観に目を奪われる。その沿線でもとりわけ有名なのが、五浦(いずら)海岸の眺望だ。波に削られた断崖に青々と生い茂るクロマツの緑と、湾の複雑な地形にさしこむ光が生む色とりどりの青のコントラストが特徴的な五浦の自然は、古来多くの人々を魅了してきたという。

近代日本の美術を支えた岡倉天心もその一人である。1905年、天心は五浦の地に六角堂と呼ばれる小さな庵を建てた。絶壁の岩肌を背負いつつ太平洋を眼前に眺められるこのお堂は、自然に身を任せて思索に没頭できるよう、天心自ら設計したものである。翌1906年には天心は横山大観や菱田春草らとともに日本美術院を五浦に移したこともあり、その近辺は近代日本美術ゆかりの地として美術館や史跡などが整備されている。

ふとしたきっかけでこの地のことを知り、自然も美術も楽しめるなら一石二鳥と足を運んでみたのだが、いざ海沿いの公園にもうけられた高台から六角堂を眺めてみると強烈な違和感を覚えた。そのとりあわせから事前に想像していた、故事や水墨画で描かれるような泰然とした風景とは微妙なズレがあったのだ。そのわけは、実際に六角堂に近づいてみてよりはっきりとした。あまりにも建物が新しいのである。

2011年3月11日の大地震によって引き起こされた津波を受けて、六角堂はその基礎だけをかろうじてのこし、大部分が海に流されてしまっていた。現在の五浦にあるのは、茨城大学を中心とする研究チームの尽力により、海底からサルベージされた堂の一部などを元に復元されたものであり、完成からまだ数年しか経過していない。

その上、近辺には岡倉天心の映画撮影のために再建された日本美術院のセットや、同院で活躍した画家たちの絵画や彫刻のレプリカも展示されており、その文化資源のほとんどが二次的に制作されたものだ。設置された当時からのこっている数少ない文化資源のひとつは「亜細亜ハ一な里(アジアはひとつなり)」と刻まれた大きな石碑で、皮肉にもこれは天心がとなえた「Asia is one」という理念を彼の没後に軍事的プロパガンダに利用するべくして建てられたものである。

きわめつきは、再度の津波被害を防ぐため湾内に設置された消波ブロックである。通常のテトラポッドでは景観を損なうと判断したのか、周囲の岩礁に似せて作られた模造の岩のような物体が海中から顔を出しているため、遠目に見るとさながら間違い探しをしているような感覚におそわれるのだ。

五浦に設置されている雑多な人造物には、かつての天心一行の野心や、史的遺産をのこそうとする学術的なねらい、土地の来歴をいかした観光地化の目論見など、この地に思いを馳せてきた人々の思念がないまぜになっている。震災から五年を経た五浦の奇妙な光景は、本来あらゆる史跡にのこされているはずの手垢のようなものを複層的に可視化した、きわめて稀有な事例だろう。これらがひとまとまりの歴史的な遺産として認められ、周囲の自然となじむまでには、どのぐらいの時間が必要なのだろうか。

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テロに盾突く平和と愛とデスメタル[高橋聡太 -10-] https://www.fivedme.org/2016/04/24/%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ab%e7%9b%be%e7%aa%81%e3%81%8f%e5%b9%b3%e5%92%8c%e3%81%a8%e6%84%9b%e3%81%a8%e3%83%87%e3%82%b9%e3%83%a1%e3%82%bf%e3%83%ab-challenging-terrorism-with-peace/ Sat, 23 Apr 2016 23:16:16 +0000 https://www.fivedme.org/2016/04/24/%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ab%e7%9b%be%e7%aa%81%e3%81%8f%e5%b9%b3%e5%92%8c%e3%81%a8%e6%84%9b%e3%81%a8%e3%83%87%e3%82%b9%e3%83%a1%e3%82%bf%e3%83%ab-challenging-terrorism-with-peace/ テロに盾突く平和と愛とデスメタル
Challenging Terrorism with Peace, Love, Death Metal

高橋聡太 Sota Takahashi

2007年3月14日、バレンタインのお返しをする予定などまったくなかったぼくは、とあるロックバンドの来日公演に足を運んでいた。いかがわしい口ひげをたくわえたフロントマンのジェシー・ヒューズは、くだらない下ネタやジョークをたっぷり盛り込んだ底抜けにごきげんな楽曲を次々に繰り出す。単なるバカ騒ぎに終止するだけではなく、古きよきロックンロールをこよなく愛するヒューズの確かな実力と、サイドを固める腕利きのミュージシャンたちのアンサンブルが、骨太なうねりを生み出していた。ヒューズが曲間でグリースたっぷりの髪をクシで大げさになでつけるたびに歓声があがり、会場との一体感も充分。ぼくも気づけば最前列で歌い踊って大いに公演を楽しんだ。

気さくなメンバーは終演後も会場にとどまってファンと交流し、ぼくもたどたどしい英語でチケットの半券にサインをお願いした。初来日ということもあり集客はかんばしくなかったが、これほどの手応えを得たバンドならすぐにまた来てくれるだろうと確信したものの、予想は見事に外れ、彼らの再来日はそれから9年が経つ今も実現していない。それでも初来日公演が忘れられなかったぼくは、数年おきに発売されるアルバムを愛聴していたものの、いまだ日本での知名度はマイナーの域を出ることがないままだ。

だからこそ、「イーグルス・オブ・デス・メタル」という彼らの人をくったバンド名を、2015年11月13日にパリで起こった同時多発テロ事件に関する報道で目にしたときには心底驚いた。不幸にもテロリストが押し入ったのは演奏の真っ最中で、89名もの死者を出した被害規模はポピュラー文化史上でも類をみないものだろう。彼らのステージの熱量と陽気さを肌で知っている自分としては、この事件の凄惨さは過去にふれたどんなテロの報道よりも生々しく感じられ、身震いせざるをえなかった。

現代のテロは宗教や人種や国籍といった枠組を超えて切迫する。しかし、われわれはただ新たな局面に怖れ戦くばかりではない。イーグルス・オブ・デス・メタルは、今年に入ってから早くもパリで犠牲者を追悼するための凱旋公演を行っている。そこで彼らは特別なメッセージソングなどを披露するのではなく、シンプルな4カウントで始まる定番のスケベな曲を全力でプレイした。それは直接的なテロ対策にはなりえないが、いつもと変わらぬ乱痴気騒ぎを腹を決めて続けることこそ、不屈の精神を示すための最善の手段であると彼らは信じているに違いない。こうした戦術は、大衆的な文化をつうじてテロへの反骨心を共有するオルタナティブなネットワークを根付かせてくれるだろう。

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うなだれ続ける宿命を背負って[高橋聡太 -9-] https://www.fivedme.org/2015/10/30/%e3%81%86%e3%81%aa%e3%81%a0%e3%82%8c%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%82%8b%e5%ae%bf%e5%91%bd%e3%82%92%e8%83%8c%e8%b2%a0%e3%81%a3%e3%81%a6-accepting-the-fate-of-having-to-be/ Fri, 30 Oct 2015 04:28:58 +0000 https://www.fivedme.org/2015/10/30/%e3%81%86%e3%81%aa%e3%81%a0%e3%82%8c%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%82%8b%e5%ae%bf%e5%91%bd%e3%82%92%e8%83%8c%e8%b2%a0%e3%81%a3%e3%81%a6-accepting-the-fate-of-having-to-be/ うなだれ続ける宿命を背負って
Accepting the Fate of Having to be Ashamed

高橋聡太 Sota Takahashi

帰省中の宴席でのこと。しばらく音信不通だった親戚のおじさんが突然連絡をよこし、金まわりのよさを自慢している……という話でもりあがった。50代も半ばのおじさんは、過去にも何度か妙な儲け話に手を出しては失敗している。どうせ今度の景気もそう長くは続かないだろうと茶化す一同。ところで、今度はどうしてまた急に羽振りがよくなったのか。そう疑問を投げかけると、「福島で除染の仕事をしているらしい」との声がぽつりと返ってきた。それから自分がどう言葉を継いだのかは、よく覚えていない。

福島第一原子力発電所の事故以降、筆者は自分なりの判断で原発に反対する立場をとってきた。デモに参加して「再稼働反対」の声を挙げたことも一度や二度ではない。しかし、昔からよく知っている親類の人生が原発と結びつき、その切実さがどれほど身近に迫っていたのかを初めて痛感した。現場との距離感に無自覚なまま望遠鏡で火事場を眺めていたら、いきなり自分の肩に火の粉がふりかかってきたかのようだった。

自身の無知に恥じ入り、おじさんのことを日々悶々と考えていた折、文筆家としての顔も持つピアノ弾き語りの音楽家・寺尾紗穂が2015年6月に上梓した『原発労働者』を手にとった。本書は、世間の注目が一挙に集まった事故前後の緊急時ではなく、安全に稼動していたとされる平時の原発に焦点を絞り、そこで働く人たちの仕事ぶりに迫った一冊だ。科学者や政策決定者たちが立脚する大局的な視点ではなく、発電所の末端で働く人たちの目線から、ボルトの締め方といったレベルで原発労働の実態を伝える筆致に、思わず息を呑む。

証言者たちの業務内容は多種多様だが、その苛酷さはいずれも想像を絶する。厳しい労働条件と引き換えに得られる多額の報酬は、しばしば被曝対策の細やかな規定を度外視したリスクの高い業務へと労働者たちを駆り立てる。彼らの多くは眼前の仕事をこなして苦役から逃れることに精一杯であり、原子力が社会や環境に及ぼす影響どころか、自身の健康にも配慮が及ばぬほど近視眼的な状況に置かれてしまう。ごく少数の実例が克明に描写されるぶん、彼らの周囲に依然として広がる、いまだ証言されざる原発労働の闇の深さを思い知らされる。そこには、除染のような原発外での間接的な業務も含まれるだろう。

さらに本書では、各証言者が原発労働に従事するまでの経緯とともに、著者の寺尾自身がこの問題に関心を抱くまでの私的な物語が正直に綴られる。その過程で著者が実感として訴えるのは、巧妙に不可視化された原発労働が、現代を生きるすべての人の暮らしと密接につながっているということだ。そのことを自覚した上で、寺尾はこう提案する。

「原発推進、反対を問わず、そこで生み出された電気を使ってきた者がまずしなければならないのは、彼らを国の英雄と祀りあげることなどでなく、「原発を動かしてきた」のは本当は誰であるか真摯に考え、うなだれることではないだろうか」

とはいえ、おじさんのことを知った自分には偶然にも「うなだれる」きっかけがあったが、見知らぬ他者の労苦に想像力をめぐらせることは容易ではない。長く入り組んだ歴史を持つ巨大な制度であれば、尚更その時空間的な広がりを把握するのは困難である。だからこそ、無関心に屈してはならない。寺尾は、われわれを否応なく組み込む国家的装置として原発を戦争と類比しているが、奇しくも本書の出版後の夏に、安倍晋三は戦後70年談話にて「あの戦争には何ら関わりのない」次世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と発言した。このような分断に抗うためにも、時空を隔てた他者の声に耳を傾けて、親身に痛みを分かちあう力がますます求められるだろう。

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本屋さんの面妖な抵抗[高橋聡太 -8-] https://www.fivedme.org/2015/09/10/%e6%9c%ac%e5%b1%8b%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ae%e9%9d%a2%e5%a6%96%e3%81%aa%e6%8a%b5%e6%8a%97-an-extraordinary-resistance-of-a-local/ Thu, 10 Sep 2015 09:24:18 +0000 https://www.fivedme.org/2015/09/10/%e6%9c%ac%e5%b1%8b%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ae%e9%9d%a2%e5%a6%96%e3%81%aa%e6%8a%b5%e6%8a%97-an-extraordinary-resistance-of-a-local/ 本屋さんの面妖な抵抗
An Extraordinary Resistance of a Local Bookstore

高橋聡太 Sota Takahashi

窓ガラスの遠く向こうで花火があがり、こちら側のうすぐらい空間を色とりどりに照らしては消えていく。部屋のなかでは髪の長い女性がギターとピアノを静かに弾き語っており、きらめきから一呼吸おいて響く炸裂音が、ときおり歌声に割りこんだ。遠景の賑やかな花火大会と近景の小さな演奏会の不思議なとりあわせに、自分がどこにいるのかを忘れそうになる。さらに奇妙なことに、そこは音響設備の整ったライヴハウスやクラブではなく、北関東の小さな町にある本屋さんだった。

品揃えの豊富な大型書店でも、掘り出しものが見つかる古書店でも、ちょっとおしゃれなセレクトショップでもない、ごく身近な「本屋さん」は今や絶滅の危機に瀕している。花屋さんやパン屋さんのように思わず敬称を付けて呼びたくなるそれは、どんな町の商店街にもあって、店先に設置された緑色のラックに児童向け学年誌の最新号が並び、母から雑誌のおつかいを頼まれたついでにお駄賃でマンガを一冊買いに行くような店である。その特徴をあらわすのにこうして懐古的な例に頼らざるをえないように、書籍流通のほとんどが大型書店やネット通販に代替されてしまった今、少なくとも自分にとって本屋さんの思い出はそれなりに遠い過去に属するものだ。

栃木県鹿沼市の旧街道沿いにあるブックマート興文堂も、一見して典型的な本屋さんである。書棚にはごく普通の雑誌や教材が並び、立ち寄るお客さんの大半も近所の人々だ。しかし、ひとたび店内をめぐれば、ただならぬこだわりが感じられる。店主の高橋朝さんは、1980年前後から即興演奏を主軸とした活動を続けている鹿沼出身の奇才であり、その審美眼が店内の随所にじんわりとあらわれているのだ。文学作品や芸術系のコーナーは、決して大きくないものの「こんな本が出ていたのか」と思わず手がのびるタイトルが厳選されている。レジの近辺には、売れ線の新刊本にまぎれて、多分野から選ばれた推薦本がコアな音盤とともに並び、つい足をとめて見入ってしまう。

さらに、高橋さんは2015年春に店舗規模の縮小にともなって長年にわたり封鎖されていたフロアを再利用し、フリースペースを開設した。冒頭で描写した演奏会は、毎年5月に開催される鹿沼市の花火大会と同日に、オープン記念イベントとして企画されたものだ。全国でも珍しい初夏の花火を見に集まった観光客で町が賑わうこの日、興文堂では十数人の観客が粛々と演奏に耳を傾けていた。地域の人々が制作した絵画やオブジェが並ぶこの面妖な空間は、その後も近隣の高校生のバンド練習や、現代詩の朗読会、即興音楽のイベントなどに幅広く利用されている。鹿沼のとなり町で育ち、文化的なものに焦がれて砂漠を出るように上京した自分にとって、身近な地域にこれほどの濃密な本と人が集まる空間があることは、かなりの衝撃だった。

かつて鹿沼市近辺にあった本屋さんはほとんど閉店し、数少ない生き残りである興文堂の経営状態も決して楽観できない状態だという。しかし、一般的な本の購入手段がマスな手段に置き換えられた今、全国に点在する本屋さんが、長年つちかった各店の人脈や地域特性に活路を見いだして状況に一矢報いようとするのであれば、そのポテンシャルはまだまだ測り知れない。あなたの町の本屋さんからも、きっと予期せぬ知脈が広がっているはずだ。
ちなみに、興文堂の最寄り駅である新鹿沼には、浅草駅から東武線に乗って2時間ほどでたどり着ける。ぜひ足を運んでいただきたい。

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怪獣たちのコモンズ[高橋聡太 -7-] https://www.fivedme.org/2015/05/03/%e6%80%aa%e7%8d%a3%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%a2%e3%83%b3%e3%82%ba-kaiju-as-the-commons/ Sun, 03 May 2015 05:53:56 +0000 https://www.fivedme.org/2015/05/03/%e6%80%aa%e7%8d%a3%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%a2%e3%83%b3%e3%82%ba-kaiju-as-the-commons/ 怪獣たちのコモンズ
Kaiju as the Commons

高橋聡太 Sota Takahashi

2015年2月、ケンタッキー州ルイヴィルは記録的な寒波に襲われていた。平年通りであればマイナス5度程度のはずのこの地域の最低気温が、連日マイナス20度まで下がり、たまに晴れ間がのぞいても、冷えきった風景を写真におさめようと手袋をはずした途端に指先が凍てつくほどである。街全体を蹂躙して生気をすっかり奪ってしまう大吹雪の威圧に、アメリカ中東部を通り過ぎてゆく巨大な怪獣の姿をつい重ねてしまった。というのも、ルイヴィルで開催された学会で、ぼくはロック音楽と怪獣文化に関した発表をする予定だったからである。

発表の内容はさておき、1980年代後半に生まれた自分にとっても、怪獣は幼いころから身近なものだった。初代『ゴジラ』の公開は1954年、TVシリーズの『ウルトラマン』の放送開始が1966年と、その源流に接しているのは自分の親世代である。だが、自分が幼年期を過ごした1990年前後はちょうどVHSビデオが最盛の時代で、過去の特撮作品も簡単にレンタルできた。よく泣く子だった自分をこわがらせるためか、それともあやすためか、とにかくウルトラマン関連のビデオは自宅でたくさん見せられた。また、同時期に映画館では「平成ゴジラ」と呼ばれるリバイバル・シリーズが年に一度封切られており、毎年必ず劇場に連れて行くようせがんで、視覚的にも聴覚的にも家のテレビで見るのとは比べものにならない怪獣たちの量塊感に興奮していた。

興味深いことに、こうした怪獣文化の追体験は世界中で起こっているようだ。今回の滞在中にルイヴィルでおもしろそうな音楽イヴェントはないものかと事前に近隣の会場をリストアップしたところ、学会が開かれた大学からそう遠くない住宅街に、そのものずばり「Kaiju」と名付けられたバーがあった。2013年に公開されたハリウッド映画『パシフィック・リム』に登場する巨大なモンスターたちが劇中でそのまま「Kaiju」と呼ばれていたように、この言葉は日本のものに限らずレトロなクリーチャー全般を指す用語として海外でも親しまれている。とはいえ、その名を冠したバーを日本から遠く離れたケンタッキー州の地方都市に見つけたときには、思わずのけぞってしまった。

これは足を運ばぬわけにはいくまいと、発表を終えた翌日にまだ雪の残った道をタクシーでむかったところ、店頭にどっしり居座ったこの店オリジナルの真っ赤な一つ目の怪獣が出迎えてくれた。近隣には大学生たちの通うレコード屋があるヒップなエリアらしく、週末の「Kaiju」は寒波をものともしない多くの若者で賑わっていた。カウンター奥の棚にはお酒のボトルと一緒に古今東西の怪獣やロボットたちが並び、ダンスフロアに面した壁面にもオリジナルの怪獣画が大きく描かれている。ローカルな客の多くは、店内のいたるところにあしらわれた怪獣たちに囲まれながら、地元のクラフト・ビールや「Monster Juice」と名付けられた日本酒を片手に談笑し、ビリヤードや、地元のアマチュアバンドによる演奏をゆるく楽しんでいた。ここでは意外にも行き過ぎたオリエンタリズムや日本的オタク性の強調は感じられず、むしろアメリカ中東部の人々が、自分と同じように幼いころから再放送やビデオなどを介して怪獣文化に親しみ、ごく自然にその郷愁にひたっているように見えた。

怪獣モノをはじめとする特撮文化は、えてして「日本独自」のものとしていわゆるクール・ジャパンの文脈に回収されがちだ。しかし、海外産のSF文化が日本のそれに与えた影響は計り知れないし、何よりも太平洋の深部・南海の孤島・火山の底・宇宙空間など、各国単位ではまるで歯のたたぬところからやってくる怪獣たちの出自を、国民国家的な枠組みで画定するのは野暮の極みだろう。現に、大寒波のような天変地異や核兵器の恐怖を体現した怪獣たちが喚起する想像力は、さまざまな世代と地域の人々がローカルなメディアによって血肉化している。やや大げさに言えば、それは愛国心ならぬ愛星心のタマゴを地球規模で育むための大切な母胎となるのかもしれない。

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白いアルバムの老衰[高橋聡太 -6-] https://www.fivedme.org/2015/03/21/%e7%99%bd%e3%81%84%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%90%e3%83%a0%e3%81%ae%e8%80%81%e8%a1%b0-white-albums-aging-in-the-test-of-time/ Sat, 21 Mar 2015 07:50:28 +0000 https://www.fivedme.org/2015/03/21/%e7%99%bd%e3%81%84%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%90%e3%83%a0%e3%81%ae%e8%80%81%e8%a1%b0-white-albums-aging-in-the-test-of-time/ 白いアルバムの老衰
White Albums Aging in the Test of Time

高橋聡太 Sota Takahashi

中古で取引されるものには、人の手をわたるうちにさまざまな痕跡が残される。古い文芸書に当時の新刊案内がはさまっていると、どんなものが同時代に読まれていたのか気になって、ついタイトルを追ってしまう。値崩れした学術書には多くの場合びっしり傍線が引いてあり、それが本の前半部で途切れていると、「ここで挫折したのか」と妙な親近感がわく。ゲームのカセットを中古で買っていた頃は、前の持主のセーブ・データが残っていると、そのまま開いてひとしきりどう遊んでいたのかを確認するのが好きだった。

文京区本郷のトーキョーワンダーサイトにて、2015/1/24〜2/22に行なわれた美術家のラザフォード・チャンによる展覧会『We Buy White Albums』は、LPレコードが中古市場で流通するうちにどのような変貌をとげるのかを提示する企画だ。タイトルにある「White Album」とは、解散寸前のビートルズが1968年に発売したアルバム『The Beatles』の通称である。リチャード・ハミルトンが手がけた本作のジャケットは、白一色の厚紙にバンド名をエンボス加工でのせ、シリアル番号をプリントしただけの、極めて簡素なデザインで知られている。

チャンは世界中で本作を買い集め、1,000枚以上ものホワイト・アルバムが揃う擬似的な中古レコード店を開いた。展示を構成するのは、スペースの中央に置かれたレコード棚と、壁面にディスプレイされたアルバムだ。形式上はレコード店で見慣れた光景だが、通常アルファベットやアイウエオの順が書かれる棚の仕切りにはホワイト・アルバムのシリアル番号だけがふってあり、もちろんそこにはぎっしり同作がつまっている。また、壁面にもチャンがコレクションから厳選した100枚のホワイト・アルバムだけが飾られている。

かつて機械的複製技術によって寸分違わぬものとして生産されたはずのジャケットの大半は、もはや「ホワイト」とは言えないほど日に焼かれている。さらに、コーヒーをこぼしたようなシミがあるもの、売り買いされるうちに何枚も値札が貼り重ねられたもの、持ち主によって大胆に油性絵の具で絵が描かれたものなど、47年の時を経てそれぞれが十人十色ならぬ千枚千色の容貌を獲得している。展示されている音盤は手にとって試聴することもできるのだが、保存状態によって音質はまちまちで、そもそもホワイト・アルバムの「オリジナル」が存在したのかどうかさえ疑わしくなってくる。

さらに興味深いことに、元来よりこのアルバムは一様なパッケージで流通していたわけではないようだ。日本ではいわゆる「オビ」と呼ばれるアルバム名やコピーが記された紙片が付され、ちょうど在廊していたチャン本人もこの「Obi(海外でもそう呼ぶそう)」の習慣を日本盤の特色として挙げていた。他の国にも変わった仕様の盤はないかと尋ねたところ、彼はレコード棚を漁ってアルゼンチンで発売されたホワイト・アルバムを差し出してくれた。その表面にはエンボス加工で「Los Beatles」とバンド名が表記され、スペイン語圏である同国の聴衆に向けて、あろうことか作者名そのものが改変されていた。

こうした経年変化や地域差はあらゆる音盤に共通するものだが、デリケートな純白の装幀をもつホワイト・アルバムは、それを明白すぎるほどに可視化させる。47年もの時間を1,000枚分のレコードがそれぞれに刻んできたことを思うと、一様に生産・流通・消費されると考えられているありとあらゆる機械的複製品が、実際にはそれぞれが刻々と個別の歴史を更新しているのだということにまで思考が及び、その時空の厚みに気が遠くなった。約900万枚を売り上げ、これからもビートルズの名盤として流通し続けていくであろうホワイト・アルバムは、今後も少しずつ変化し続け、LPレコードというメディアにとっての年輪のような機能を果たしていくのかもしれない。

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