Movingimages – 5: Designing Media Ecology https://www.fivedme.org Wed, 17 Mar 2021 06:05:27 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.6.10 https://www.fivedme.org/wp/wp-content/uploads/2020/09/cropped-5dme-32x32.png Movingimages – 5: Designing Media Ecology https://www.fivedme.org 32 32 旅するディスプレイ[ペク・ソンス -12-] https://www.fivedme.org/2017/05/13/%e6%97%85%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%b9%e3%83%97%e3%83%ac%e3%82%a4-traveling-display/ Sat, 13 May 2017 05:33:48 +0000 https://www.fivedme.org/2017/05/13/%e6%97%85%e3%81%99%e3%82%8b%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%b9%e3%83%97%e3%83%ac%e3%82%a4-traveling-display/ 旅するディスプレイ
Traveling Display

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

朝鮮半島をめぐって緊迫する国際情勢のニュースが連日報道されているなか、私はソウル仁川空港行きの飛行機に乗った。飛行機は揺れもなく至って平和に飛んでいた。飛行機の機種に対する知識など皆無な私にとって、自分が乗っているこの飛行機を判断する基準は座席のスクリーンである。それによっていい飛行機か、ダメな飛行機かを評価するのである。今回のスクリーンはタッチパネルもなく、ワイド画面の映像にも適応してない古いタイプであった。

2時間半余の飛行時間において、私が選んだ映画はハリウッド新作アニメーション『シング』であった。動物化されたキャラクターたちの徹底的に計算された動きや顔の表情などに対する既視感が、この映画を陳腐なものにさせている。しかし狭い座席と音漏れするヘッドフォンでも、キャラクターたちの歌声はすばらしく聞こえた。同時に頭の片隅に、いつもの疑問がわき上がる。飛行機では、映画の最初にこの映画はスクリーンに合わせて修正されていると告げられる。大きい映画館のスクリーンで見られる映像がこんなに小さくなるのだから、それはそうだろうと思いながらも、修正という言葉がいつも引っかかる。映像の左右が切られているのか、上下がちょっと伸ばされているのか。至って普通に見えるこの映像で、私は何を見逃しているのだろう。ぼうっと考えながら眠りに落ちた。

飛行機は無事に着陸し、空港付近のホテルにチェックインした。部屋に入って最初にやったことは、コンピュータと携帯電話とiPadの充電である。50インチはありそうな壁がけテレビの隣にある机の上に電源がまとめられていた。そのパネルには、いくつかの違うタイプの差し込みプラグが使えるプラグ受けが二つ、インターネットの有線プラグ、HDMIとUSBとをテレビにつなげるそれぞれの差し受けがあった。しばらくそこを見つめながら考えた。好奇心は旺盛だが知識が足りない私はそれを全部試してみた。HDMIケーブルでiPadを映し、USBを差し込み、コンピュータをつないだ。ホテルから借りたケーブルで私のメディアとつながれたテレビの画面は、もはやテレビではなく、ディスプレイ・モニターになった。ディスプレイに映されたYouTubeで『シング』をさがした。見終えられなかった映画の後半部はなかったが、グンターとロジータやジョニーやアッシュの歌を見た。

ホテルの机に並べられたメディアを見ながら、今時分、自分が映像をどう見ているかを改めて考えた。映像を見ることは、コンテンツとディスプレイと映像提供サービスにおけるそれぞれの選択とその組み合わせで成り立つ。特に近年、増殖したディスプレイはあらゆる生活の場面についてくる。映画館でスクリーンを楽しみ、家のテレビ画面で時間を確かめながら育った私は、現在、強迫症のようにコンピュータとタブレットと携帯電話を持ち歩き、常にその画面をチェックしている。街では電車にも車にもビルにもディスプレイが付き、飛行の窮屈な時間をなだめるのも小さなスクリーンである。

帰りの仁川空港で、旅客ターミナルのメイン通路を歩いた。ターミナルの中央の天井の左右2カ所から吊り下げられている横8メートル、縦13メートルの曲線の映像パネルをはじめ、表通路でざっと数えただけで、20個の大小の映像ディスプレイと40枚の電子看板が置かれてあった。

空港ターミナルでも、都市の繁華街でも、その真ん中に立って意識をそっとのばしてみる。話しかけてくる壁が、チカチカクルクル変わる看板が、私のカバンの中の映像装置が、私のまわりを囲みはじめる。これらの流れは街の風景を変えるだけではなく、人間の身体と意識にも影響をもたらす。しかしながら、人間が適応できるギリギリの速度で変化していくこの流れは、ビジネスチャンスや技術と科学の進化というような文脈で語られることを好み、人間に関してはあらゆる問題を個人レベルで喚起する。そのなかで我々がやるべきことは、まずこの様子に関するビジネスや技術的言説を人間共同体の言説に変換させることであり、またその議論を持続的に行なうことである。あるいは、私が求めているものは、ただ抵抗の悲鳴をあげている視神経に与えられるいま少しの余裕と、流れについていっている自分の主体性に対する実感かもしれない。

]]>
映画『ムーンライト』:太陽と月と風と水のポエム[ペク・ソンス -11-] https://www.fivedme.org/2017/05/13/%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%83%a0%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e5%a4%aa%e9%99%bd%e3%81%a8%e6%9c%88%e3%81%a8%e9%a2%a8%e3%81%a8%e6%b0%b4%e3%81%ae%e3%83%9d%e3%82%a8%e3%83%a0-moonlight-a-poem-of/ Sat, 13 May 2017 05:29:23 +0000 https://www.fivedme.org/2017/05/13/%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%83%a0%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%88%e5%a4%aa%e9%99%bd%e3%81%a8%e6%9c%88%e3%81%a8%e9%a2%a8%e3%81%a8%e6%b0%b4%e3%81%ae%e3%83%9d%e3%82%a8%e3%83%a0-moonlight-a-poem-of/ 映画『ムーンライト』:太陽と月と風と水のポエム
Moonlight: A Poem of the Sun, the Moon, Wind, and Water

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

「ムーンライト」はアメリカのマイアミに生きるシャロンという主人公の成長物語である。映画は「リトル」というあだ名の子供時代と「シャロン」の青少年時代、成人して「ブラック」と呼ばれる時代の3部構成で、それぞれの時代を3人の俳優が演じている。

映画は、ドラッグディーラーのフアンがスカイブルーの車で自分が管理する地域の売人に会いにくるシーンから始まる。太陽が眩しく街に降り注ぐなか、カメラはフアンの背中を追い、二人のまわりを滑らかに渦巻くようにぐるりぐるりとする。次のシーンは、青いバッグを背負った子供のシャロンがいじめグループから逃げるために走っている。彼の足元はあぶなっかしく、息は上がっている。シャロンの背中を追うカメラも激しく揺れている。

映画のシーンがここまで進んだ時点で、この作品についてアカデミー賞授賞式でのハプニングの話題くらいしか事前情報を持っていなかった私は、電源をオフにされてバックに収められている自分の携帯電話を取り出し、インターネットでこの映画のカメラマンを検索したい強い衝動にかられた。ウォン・カーウァイ作品のクリストファー・ドイルのカメラがみえる。映画を見ている間、ずっとウォン・カーウァイの影がオーバーラップされるのを振り払いながら、私の意識はこの映画のカメラを追った。最初のシーンがある種の成功を収めた大人の自信と穏やかさをもったフアンを表わしたように、次にシャロンの不安と苦痛の内面を写し出したように、この映画でバリー・ジェンキンス監督とジェームズ・ラクストンのカメラは一つ一つの場面を計算し、意味を与えている。

そこにはこの映画を貫く4つの象徴がある。太陽と月と風と水である。映画には、マイアミの貧しいブラック・コミュニティにおける暴力とドラッグのトラブルにさらされ、自身の性的アイデンティティに悩むシャロンにとって、最も幸せで本来の自分になれる場面が3回登場する。

「リトル」の時、シャロンはフアンに連れられ海に行った。そこで洗礼の儀式のように海の水に浸かり、泳ぎを教わり、「ブラックの子供は月の明かりの下で青くみえる」と言われた。お父さんの存在を知らないシャロンが男の大人によって成長への扉の在り処を教えてもらったはじめての機会であった。

「シャロン」の時、月明かりがいっぱいに注ぎ、波が寄せる砂浜で、風にあたると自分らしくなれるというケビンとキスをした。自分のゲイとしての性的アイデンティティと二人の愛を確認する時間であった。そして「ブラック」の時、ケビンと再会した。同じく海と風と月明かりの下で、二人は外面が大きく変わってしまったにもかかわらず、消えずに存在していた愛を確かめることができたのであった。

太陽はシャロンが生きるこの世界であり、その色はブラックとホワイトである。その明るい白の光は人々を曝け出しながらも、ブラックな肌を眩しい美しさに輝かせる。月明かりは青く人の心に沁みる。ときどき黒い肌を突き抜け、彼の顔を、体を青黒く光らせる。外の世界にどう振り回されようと、母の赤い怒りに向けられようと、シャロンの内面の青緑の月は消滅せず存在し続ける。

だからシャロンの大事な3つの場面は白と黒と青で色づき、再生していくための媒介の水が寄せられ、愛と安心のそよ風が吹いているのである。

]]>
ゴジラは日本のものだ![ペク・ソンス -10-] https://www.fivedme.org/2016/11/23/%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%83%a9%e3%81%af%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%a0-godzilla-is-ours/ Tue, 22 Nov 2016 18:11:55 +0000 https://www.fivedme.org/2016/11/23/%e3%82%b4%e3%82%b8%e3%83%a9%e3%81%af%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%a0-godzilla-is-ours/ ゴジラは日本のものだ!
Godzilla is Ours!

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

8月を炎天下のソウルで過ごし、日本に戻ってきた日、私は成田空港からそのまま千葉の映画館へ直行した。走る車の中で、以前別の映画の上映時にみた『シン・ゴジラ』の予告編を思い返した。黒い灰と赤い血の色。沈黙の映像に流れたゴジラの凄絶な叫びと悲しく美しい音楽。

映画は大ヒットし、すでにさまざまな視点から議論され、そろそろ終映を迎えようとしていた。私はそれらの情報を遮断し、なんの知識も先入観も持たずに、予告映像の感動を再びよみがえらせたかった。映画を観ているうちにふっとあることに気づいた。ここには二つの世界が併存する。一つはゴジラの世界で、もう一つは人間の世界である。

ゴジラにはいろいろな意味が持たされた。その比喩は、3・11の福島原発から、北朝鮮のミサイルや中国からの攻撃にまで飛躍した。日本語的な陰影をもって、カタカナの「シン」の意味は観客に委ねられた。水爆や原爆から恐竜や可愛いキャラクターにまでなったゴジラの原点回帰を告げる言葉なのか、人間がおかした因果の罪なのか、あるいはそのカルマを裁く神なのか。いずれにしろ、その世界は消滅と生命の色彩をもって、悲しく咆哮し、もくもく進み、破壊し、止まって、自分の時間をきざむ。日本が積み上げてきた精巧な特撮技術で撮られたそれらのシーンは美しく沈黙的で表象的である。

人間の世界はガヤガヤする。叫び、怒鳴り、おびえる。会議をし、にらみ、頑張る。3・11的ノンフィクションとフィクションがすれすれに重なる展開は、この映画にとって諸刃の剣となっている。3・11の当事者でもある日本の観客が映画から当時の真実を追究し、さまざまな場面に自分を投影し、想像することで、映画のリアリティーが生まれる。しかし一方で、3・11の呪縛は映画の結末を縛りつける。観客は選択肢のない結末に向けて、ゴジラを凍結させるべくその体にコンクリートポンプ車が血液擬固剤を突っ込むのを呆然と観ているしかない。

『シン・ゴジラ』はとても日本的な映画になっている。そしてこの映画を日本的にいたらしめた一つが矢口蘭堂という登場人物である。矢口は歴代のゴジラを堪能し、3・11を経験し、その経緯を見守ってきたすべての日本人である。そして日本人の観客は矢口蘭堂である。観客はすべてを知っている。東京湾から現われた未確認巨大生物の名前もその意味もすでにわかっている。矢口は3・11を検証する観客の現身(うつしみ)であり、日本的システムの不条理さに対して堂々と自分を主張する観客の代弁者であり、ワナビーである。

海外の観客に『シン・ゴジラ』は難しい。早口で進む会話についていくことも、物事の進め方や官僚システムを理解するのも難しい。映画の展開についていくための知識も経験も共有していない。精巧に作られた我が街が、働く建物が、自分の記憶の隅にあるいつもの場所がゴジラの尻尾で破壊され、放射熱線で焼かれるのを倒錯的な思いで見つめることもできない。映画を楽しむための具体的な仕掛けに、日本人のようには引っ掛かれないのである。よほどの字幕の工夫が必要である。

でもゴジラがいる。最も日本的なものが最も世界的なものになるのであれば、それはまさしくゴジラという存在である。釜山の海底にも、香港の地底にもゴジラはいる。しかし大勢の日本人の声が聞こえる。「外国人にゴジラのなにがわかる!」。確かにアメリカはわからなかった。声はさらに高くなる。「ゴジラは日本のものだ!」

この映画はゴジラにすべての人類に通じる普遍的な意味を持たせるまでにはいたらなかった。その理由は、初代ゴジラから積み上げられてきた日本人のゴジラへの思いと、3・11に対するいまなお鮮明な記憶の重みかもしれない。

]]>
みんなが密かに見る夢:『怪しい彼女』の物語[ペク・ソンス -9-]  https://www.fivedme.org/2016/05/15/%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%8c%e5%af%86%e3%81%8b%e3%81%ab%e8%a6%8b%e3%82%8b%e5%a4%a2%e6%80%aa%e3%81%97%e3%81%84%e5%bd%bc%e5%a5%b3%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e-a-dream-we-have-in-secret/ Sun, 15 May 2016 03:51:47 +0000 https://www.fivedme.org/2016/05/15/%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%8c%e5%af%86%e3%81%8b%e3%81%ab%e8%a6%8b%e3%82%8b%e5%a4%a2%e6%80%aa%e3%81%97%e3%81%84%e5%bd%bc%e5%a5%b3%e3%81%ae%e7%89%a9%e8%aa%9e-a-dream-we-have-in-secret/ みんなが密かに見る夢:『怪しい彼女』の物語
A Dream We Have in Secret: the Story of Miss Granny

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

人間最大級の欲望はなんだろう。秦の始皇帝は不死を渇望したし、道士たちは不老不死の仙人を目ざした。太陽に近づきたかったイカロスのように、人間の限界を超えることへの憧れと恐怖は、私たちの無意識に押し込まれながらもしぶとく生き続ける。そして私たちの抑圧された心が夜中の夢に現われるように、不死や永遠の若さ、肉体と分離できる魂に対する人類最大の冒険は、我々の物語や音楽やビジョンの中に描かれ続けている。

恐怖の『ドラキュラ』がいれば、『トワイライト』の永遠の若さを持つエドワードがいる。『インターステラー』のクーパーは宇宙の歪んだ空間を移動したことで過去の自分と遭遇したし、『恋はデジャ・ブ』のフィルは朝起きても前日と同じようにくり返される時間のループの中で、自分自身を変えることで幸せな恋を獲得できた。『奇蹟の輝き』ではクリスが自分の死から帰還し、ときには母と娘の魂が、また男と女の魂が入れ替わる。

ここにきて、おなじみの「若返りシリーズ」に新しい映画が加わった。『あやしい彼女』である。韓国版(日本公開時の邦題は『怪しい彼女』)を原作とする同作は、今まで中国版(『重返20岁』)、ベトナム版(『Em Là Bà Nội Của Anh』)が作られ、このたび日本版の披露となった。このリメイクは、タイ、インドネシア、ドイツ、ハリウッドと続きそうだ。

同じ原作がいくつかの国でリメイクされるのは、この映画がはじめてではない。日本のマンガ『花より男子』が原作の台湾テレビドラマ『流星花園 -Meteor Garden-』は、アジア中で大ヒットした。その後、韓国版と日本版のテレビドラマが次々に製作された。いずれも大人気となり、ファンたちに各国のバージョンを比較しながら観る楽しみを与えた。

今回の『怪しい彼女』は、映像のビジネス的な観点からすると、同じ多国リメイクでも『花より男子』とはすこし異なる流れを持っている。この映画は企画の段階から多国リメイクを視野に入れて出発したのである。多くの国で共感を得られそうな内容を開発し、それぞれの国の文化と観客趣向を適切に反映するというものである。その意味で『怪しい彼女』は、マルチ企画や適切な現地化の最も成功した事例といえる。

『怪しい彼女』における「若返り」は、忘れられ、叶えなられかったことをもう一度求める私たちの夢物語である。今回の『怪しい彼女』は、70代のおばあさんが20歳の自分に戻ることでいろいろなことが起こるという話。人間の原初的な夢を反映する若返りの典型的なストーリーでありながら、この映画が数カ国でリメイクされるほどの人気が出るのはなぜか。どこが面白いのだろうか。

その理由は、なじみのある展開を各国の感性に合うように解釈しているだけではなく、各国女優たちの可愛らしさと演技のうまさ、また家族愛に回帰するストーリーの安心感があるからだと思う。しかしながら、なにより大事なポイントは音楽である。選曲の瞬発力と感性である。テレビのプロデューサーに抜擢された主人公がカメラの前で歌を歌う。彼女の頭に浮かぶのは、愛する人を亡くし、女一人で子供を養っていかなければならなかった厳しい人生であった。彼女の目からは一粒の涙が落ちる。この場面を作るのは、彼女たちが歌う韓国の『白い蝶々(하얀나비)』であり、中国の『微甜的回忆(すこし甘い思い出)』であり、日本の『悲しくてやりきれない』である。

ポストモダン的な状況においてもてはやされるポピュラー・カルチャーは、新しい創作ではなく、リメイクとパロディであると言われる。しかし、「若返りシリーズ」が作り続けられているわけは、大衆文化やメディア的論理だけでは説明しきれない、人間の潜在的欲望がみる夢にあるのではないかと思う。

*『あやしい彼女』(水田伸生監督、2016年)

]]>
甘いワナに飛び込む:『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』[ペク・ソンス -8-] https://www.fivedme.org/2016/05/07/%e7%94%98%e3%81%84%e3%83%af%e3%83%8a%e3%81%ab%e9%a3%9b%e3%81%b3%e8%be%bc%e3%82%80%e3%83%90%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%9e%e3%83%b3vs%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%83%b3-%e3%82%b8/ Sat, 07 May 2016 03:11:17 +0000 https://www.fivedme.org/2016/05/07/%e7%94%98%e3%81%84%e3%83%af%e3%83%8a%e3%81%ab%e9%a3%9b%e3%81%b3%e8%be%bc%e3%82%80%e3%83%90%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%9e%e3%83%b3vs%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%83%b3-%e3%82%b8/ 甘いワナに飛び込む:『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』
Jumping into a Bitter-sweet Trap: Batman v Superman: Dawn of Justice

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この手の映画を観る前はいつも自問する。このワナにはまる覚悟はできているか。

『007』のジェームズ・ボンドから始まり、『スター・ウォーズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『ミッション・インポッシブル』、また『ハリー・ポッター』、『ロード・オブ・ザ・リング』、『セックス・アンド・ザ・シティ』、『トワイライト』などなどまで、人生の年月の記憶がこれらシリーズもののバックナンバーできざまれそうである。オリジナル小説を読みあさり、テレビシリーズと比較し、関連商品を買い続けるこの甘いワナに喜んで飛び込むかである。

また新しいシリーズの幕が開けられた。アメリカンコミックの出版社「DCコミックス」のスーパーヒーローチーム〈ジャスティス・リーグ〉の物語である。その始まりにおけるバットマンとスーパーマンが戦うという設定は、私のようにアニメーション・シリーズで失望した人々をも映画館に向かわせるほどインパクトの強いものであった。どうしてあの2人は戦うのか、そしてどのように戦うのか。

実際に観ていくつかのことを思った。まずは多くの映画やドラマが人間の幼少期の経験と記憶にあらゆる問題の原因を還元するなか、悪役のレックス・ルーサーを含む3人の主人公たちの父親コンプレックスぶりは、観客に既視感と安心感さえ覚えさせるものである。さらにバットマンとスーパーマンの2人の母の名前が同じだとわかった途端、最大の戦いをやめ、戦友になる場面を目にしては、脚本家の頭を殴りたくなるほどの虚脱感を覚える。

肝心なのはなぜ2人は戦ったかである。映画を何回思い出してもよくわからない。2人は、自分こそが必要な存在であり、相手はあれこれの理由で排除すべきであるとするが、実はレックス・ルーサーの策略による誤解であったりする。ヒーローたちは単独で登場すると格好いいのに、集団になるとなぜか馬鹿っぽくなる。これは私がアニメーション・シリーズからずっと思ってきたことである。

20世紀末頃、日本ではウルトラマンガイアとウルトラマンアグルが有機体である地球を守るために人類という生き物を抹殺すべきかどうかで葛藤した。この問題設定が正しいかどうかはともかく、子供たちは人類をひとつの相対的な存在として考える宇宙人的見方をそっと教わったのである。今回、この映画の問題提起のひとつは、ヒーロー的行為とその副作用における妥協の可能性である。正義の戦いにも負の側面がある。建物は破壊され、人は怪我し死に至らしめられる。地球人の立場と意見が問われている。しかし我々が、宇宙人であれ地球人であれ、ヒーローの出現を夢見る限り、このシリーズが何回続いてもその答えを見つけることはできないだろう。

それでも、この映画を楽しめる理由はふたつある。ひとつはバットマンとスーパーマンがどう戦うかが見られることである。そもそも宇宙人と地球人との戦いである。我々がすべきは、誰が強いかではなく、戦闘の技が交される過程をエンジョイすることだろう。もうひとつはワンダーウーマン、これ以上になく格好よくセクシーな女神である。彼女の登場は、これから他のヒーローの登場にも期待を持たせるに十分である。

アイアンマンやキャプテン・アメリカなどを集めたマーベル・コミック社の〈アベンジャーズ〉に対抗するこのヒーローたちの物語を見続けるかどうかは、とりあえず第2作目を観てから決めることにした。

*『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(ザック・スナイダー監督、2016年)

]]>
空間は誰のもの?──街のスクリーンが語ること[ペク・ソンス -7-]  https://www.fivedme.org/2015/10/23/%e7%a9%ba%e9%96%93%e3%81%af%e8%aa%b0%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae-%e8%a1%97%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8-whom-does-space-belong-to/ Thu, 22 Oct 2015 20:53:50 +0000 https://www.fivedme.org/2015/10/23/%e7%a9%ba%e9%96%93%e3%81%af%e8%aa%b0%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%ae-%e8%a1%97%e3%81%ae%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%81%8c%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8-whom-does-space-belong-to/ 空間は誰のもの?──街のスクリーンが語ること
Whom Does Space Belong to? – What Screens in the Streets Tell

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

泊まったホテルの窓からバンコク市内の風景が広がっていた。熱帯の大地に描かれるバンコクのスカイラインは訪れるたびに有機物のように変化している。より広く、より高く。窓越しに見おろす私の視線はパヤータイ通りの終着点に光る大型スクリーンをとらえた。ホテルエントランスの向かい側の道路にも、大型スクリーンが三層になって光っている。

スクリーンをもっと見たくて、私はバンコクの繁華街を歩きまわった。プラットホームをうろつき、行く当てもなく電車に乗った。すでに見慣れた風景だと感じていた街のスクリーンだが、そこにはさらなる違和感が加わっていた。スクリーンがしゃべっている。視線を逃がす私の意志に関係なく、音が私の耳を追ってくる。分身術のように同じ画像を見せる複数のスクリーンは異次元空間を作り出している。道路沿いのスクリーンを、渋滞した車から人々が見つめていた。

20世紀初頭、ネオンサインは都市の夜を変えた。理髪店のサインとして始まった人工の光は、夜の空間に対する人々の感覚をも変えた。そのネオンサインがノスタルジアになり、より先進的な光になった現在、都市の空間には昼夜関係なく光るスクリーンが増えている。

日本語のCMが流れるバンコクの電車で、そのスクリーンを見つめる人を数えた。ソウルの街角に立ち、大型スクリーンに流れる地方自治体の広告を分類してみた。シンガポールのブランドショップの外壁に流れるファッションショー映像を見ながら頭の中でスクリーンの大きさを計り、新しく引っ越したソウルのアパートのエレベーターのスクリーンから地域の情報を得た。

私は見せられ、聞かされている。自分のテレビは自分で消せるが、パブリックな空間で見せられる映像に私はどう関われるだろう。空間は誰のものか。私に電車やエレベーターのCM映像を拒否する権利はあるのか。スクリーンの空間はその場所に関わる人々の必要性がもたらす必然的な結果だろうか。街角で見られる映像は誰かが流しているものである。そこには見せられる人の主体性はない。暴力のように映像が迫ってくる。

人間をめぐる空間の変化とはそれ自体、人類文明の歴史でもある。人間は、神が作った自然空間の中に人間的意思の空間を、徐々に、確実に作り上げてきた。韓国の僧侶タンホは、物質と精神はいつもくっついていくのでどちらが先で後かは分別できないと言った。物質的空間がそこに生きる人々の同時代的精神性の現れであるとするなら、アジアの都会において急増するスクリーンの空間は私たちのどのような精神性を現しているのだろう。

]]>
シンガプーラのイメージ[ペク・ソンス -6-] https://www.fivedme.org/2015/08/22/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%97%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%83%a1%e3%83%bc%e3%82%b8-the-image-of-singapura/ Sat, 22 Aug 2015 06:19:52 +0000 https://www.fivedme.org/2015/08/22/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%97%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%81%ae%e3%82%a4%e3%83%a1%e3%83%bc%e3%82%b8-the-image-of-singapura/ シンガプーラのイメージ
The Image of Singapura

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

シンガポールに来て4カ月が過ぎ、この都市空間への感覚が鮮明になってきた。一つ、また一つ、ある場所に意味ができ、その間が路線バスでつながった。バスの番号ごとに別の街がみえてくる。バスのウィンドウは私がシンガポールをみる大きいスクリーンなのだ。

すべての空気が眩しい週末の正午過ぎには、キンキンに冷えたバスに乗って、国立博物館「シンガプーラ:700年」展を見に行く。シンガプーラは古くからこの地域を指す言葉で「ライオン・シティ」の意味である。ライオンはもともと仏教修業の隠喩として使われるが、14~15世紀のマジャパヒト王国において「王室」のシンボルとして使われ、現在はこの国のシンボルの一部になっている。本1冊読めばわかる歴史だが、昨秋~今夏開催のこの展覧会に私は何度も通っている。文字で読むシンガポールの50年史と私が日常に接する現実の間のつるんとした空白を埋めたくて、ここに来るのである。

「シンガプーラ:700年」展のビジュアル・イメージは、私が現在にみる川や街や人々に時間的な深みを持って、重なる。白黒の写真の中の彼らはお茶や香辛料の荷を担いで船を行き来し、優雅なティータイムを楽しむコロニアル家族の従順な奉公人であった。建国の混乱を経て、人々は雨で水浸しになる家屋から近代的な公団住宅に移り、700年のほとんどを忘れられていたシンガプーラはアジア一豊かなシンガポールになったのである。

歴史が構成され、解釈されるものであるとするならば、私のシンガポールはこの展示の700年を準拠にしている。気軽さと少しの無責任さを意識しながら、私はこのビジュアル・イメージが伝える物語を現実で確認し、頭で反論しながら、シンガポールに接している。

そんななか、私はシンガポールの最新映画『1965』を観た。1965年はシンガポールが建国した年で、映画は建国までの混乱と決断を描いている。主要な人物たちが全部登場した時点で、映画の結末は想像できたし、よくできたプロパガンダ映画だと思ったが、一つのメッセージが私の心に刺さった。李光耀(リー・クアンユー)前首相が「我々はシンガポールで多民族国家を手に入れることになる」と宣言したとき、初めてシンガポールが多民族国家である本当の意味が理解できた。それは人間の意志であり、実践だったのである。それは建国理念であったし、現在進行形でもある。

この精神性はシンガポール政府のPR動画にも一貫して現れる。YouTubeを観るたびに差し込まれるこの政府動画にうんざりしながらも、私はこの国が目ざす先をすこしずつ理解できるようになってきた。友人は私がシンガポール政府のイメージ戦略に嵌まったとからかう。それは本当のことだろう。しかしわかりやすいプロパガンダは猛毒にはならない。私たちの日々のドラマティックなメディア経験は、毒を以て毒を制す瞬発力さえもたらしてくれるからである。

]]>
シンガポールでテレビをつなぐ[ペク・ソンス -5-] https://www.fivedme.org/2015/05/03/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%81%a7%e3%83%86%e3%83%ac%e3%83%93%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90-connecting-tv-in-singapore/ Sun, 03 May 2015 06:09:52 +0000 https://www.fivedme.org/2015/05/03/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%81%a7%e3%83%86%e3%83%ac%e3%83%93%e3%82%92%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90-connecting-tv-in-singapore/ シンガポールでテレビをつなぐ
Connecting TV in Singapore

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

在外研究でシンガポールに来ている。一人暮らしを始めるにあたって、まずはすべての生活インフラの手続きが必要になる。その中の一つがテレビをつなげることである。私が借りた1LDKの部屋にはLGのテレビが備えてあるが、その中身は私が満たさなければならない。テレビを見るってことが単純に電源を入れて地上波をキャッチする意味ではなくなった今では、代理店を探すのが最初の一歩になる。私はシンガポール最大のテレ・コミュニケーション会社であるStarHubでテレビとインターネットと携帯電話の契約をいっぺんに済ませることにした。

テレビにサムソンのHD変換機をつなげた。このボックスは韓国の実家にあるものと同じである。あとはプログラムを選ばなければならない。シンガポールの5つのローカルチャンネルと、日本のNHKや韓国のArirangなどの15チャンネルはフリーで見れる。それ以外に、私は番組の特性によって7つのグループに分かれた有料のチャンネル群から3つのグループを選んだ。「ワールドニュース」「エンタテインメント」「チャイニーズエンタテインメント」の基本的なセットである。

チャンネルを一つずつ押してみる。シンガポールのローカルチャンネル以外は韓国や日本のスカパー番組と重なるものが多い。アメリカのニュースとドラマと娯楽番組である。少なくともこの3カ国はアメリカのテレビ番組を一緒に所有し消費し、その意味でつながっている。ほかはチャイニーズものと韓流がある。日本ではチャイニーズのものが常に少数派の嗜好であったし、韓流ブームはもう消滅したと言われているが、シンガポールではまだ韓国のドラマやK-POPが顕在であり、チャイニーズドラマ枠は増えていくばかりである。日本のものとしてはマンガとアニメーションが若者、特に男の子に強い人気を得ている。

週末の夜、同じの階のどこかの部屋からすごいボリュームで中国時代劇の音が聞こえてくる。剣が人を斬り、空間でぶつかり合う。掌風で物が飛ばされ、空から矢の雨が降る。中国語のセリフは理解できないが、私の頭ではその音だけで様々な場面が描かれる。明らかに私はチャイニーズドラマでシンガポール人とつながっている。同じドラマを見てきたその時間によって、言葉以外の映像の解き方を共有しているのである。

私はシンガポールのテレビ線を繋げることで、私たちがどんなに多くのテレビ文化を共有しているかを再認識した。その中でシンガポールのローカルなものを見つけて理解していくのが、これからの私の最大の楽しみである。

]]>
地下鉄の風景[ペク・ソンス -4-] https://www.fivedme.org/2015/03/27/%e5%9c%b0%e4%b8%8b%e9%89%84%e3%81%ae%e9%a2%a8%e6%99%af-scenes-from-the-subway/ Fri, 27 Mar 2015 01:50:05 +0000 https://www.fivedme.org/2015/03/27/%e5%9c%b0%e4%b8%8b%e9%89%84%e3%81%ae%e9%a2%a8%e6%99%af-scenes-from-the-subway/ 地下鉄の風景
Scenes from the Subway

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この冬、中国の南京と上海で2週間を過ごした後、韓国・ソウルの街を歩き、シンガポールへ渡った。街並の看板の文字はそれぞれ違うのに、どこの国の地下鉄でも同じ風景が見られる。多くの人が携帯を見つめていた。中国では「低頭族」という。私は日本ではLINEを使うが、中国人とはWeChat、韓国人とはKakaoTalkでやり取りをする。それぞれ何がすごくておもしろいのか比べることはできても、結局これらは同じ文法で動いているし、私たちは同じようなビジュアルのアイコンを頼りに使いこなせるようになる。

どのOSの電話を使っているか、どのアプリを見ているかに関係なく、端末の画面を通して、人々はその肉体がおかれている場所から意識が別の空間へ分離され、二つの次元で存在する。そしてそのような行為そのものが私たちに同じような外見や態度として現れ、どの国の地下鉄でも同じ風景を作り出すのである。

しかしながら今の社会はそれだけでは満足しないらしい。携帯の端末を持てない人、それを見つめるのに疲れた人、バッテリーが切れている人などには別の選択がある。まだ先端な車両に限る話ではあるが、日本では地下鉄のドアーの上に、中国ではドアーの側面に、韓国では天井の真ん中にスクリーンがぶら下がっている。今日のニュース、天気、地下鉄利用時のエチケット、新商品情報、ヒット中の映画広告など、鉄道会社の一方向的な映像コンテンツが映し出される。国によって具体的な内容は異なるが、そのめざす方向はほぼ同じだろう。

私の視線はどこの国にいようとデジタル画面を求めてさまよう。自分の手のひらに収まる画面、制限された空間で共有される画面、街の風景としてきらめく大型スクリーン。私の目は乾燥した涙であふれ、首の筋肉は悲鳴を上げる。しかし私の感覚のどこかはそれらにフィットし、安心する。また文字の違いを越えたビジュアル情報のリテラシーを確認し楽しむ。私はこれが自分だけの経験ではないこともわかっている。そして私たちは、同じ風景が内在する未来の発展も現在の矛盾も国を越えて共有していることを確認するのである。

]]>
映画が観られる空間と私たちの記憶[ペク・ソンス -3-] https://www.fivedme.org/2014/11/01/%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%81%8c%e8%a6%b3%e3%82%89%e3%82%8c%e3%82%8b%e7%a9%ba%e9%96%93%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e8%a8%98%e6%86%b6-a-place-of-seeing-movie-and-our/ Sat, 01 Nov 2014 01:58:00 +0000 https://www.fivedme.org/2014/11/01/%e6%98%a0%e7%94%bb%e3%81%8c%e8%a6%b3%e3%82%89%e3%82%8c%e3%82%8b%e7%a9%ba%e9%96%93%e3%81%a8%e7%a7%81%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e8%a8%98%e6%86%b6-a-place-of-seeing-movie-and-our/ 映画が観られる空間と私たちの記憶
A Place of Seeing Movie and Our Memory

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

この夏に旅したイギリスの湖水地方のタウンには、小さな映画館があった。この地方特有の石で作られた建物の壁にはハリー・ポッターの主人公を演じたD・ラドクリフの最新作のポスターが貼られてあった。私は入り口に書いてある「ムービーと食事」の値段設定に戸惑い、ディーナーショーや結婚パーティーのように、観客は丸いテーブルで食事をしながら、歌やトークやカップルの出会い映像の代わりに映画が観られるのだろうかと勝手に期待した。だがそうではなく、私の楽しい想像はすぐさま否定された。映画を観て食事をするのはデートや家族行事の定番で、それが一つの建物の中で、しかもセット値段でできるのであればたしかに便利である──としぶしぶ納得しつつ、映画観るのはあきらめた。そして勘違いの期待と、勝手な落胆だけが旅の思い出として残った。

映画を観る形態と概念は、時代にそって多様化してきた。映画は映画館という専用の空間で大勢が一緒に観るものから、テレビ放送の時間枠の中でCMを挿みながら観るものになった。グローバルなシネコンが隆盛なおかげで、多くの国の映画館で誰もが訳知り顔で振る舞えるようにもなった。また私空間にDVDを並べておくことで自分の経験を可視化することもできるし、クラウドからダウンロードして自分のハードディスクで所有することもできるようになった。資本主義的配給システムから落ちこぼれる映画をすくい上げるべく各地・各種の映画祭が開催され、観客の要求により積極的に応じるべく共同体上映が企画されている。

しかしながら脳の深層部分に埋め込まれた記憶のように、映画を観る空間に対する私たちの原初的感覚は変わっていないような気がする。前面に見える四角いスクリーンがワイドサイズになり、イスがより豪華になって、またそれが映像に応じて動き、3D眼鏡をかけた私たちの感覚を様々な匂いが刺激するようになっても、本質は変わらない。

プラトンの洞窟のような暗闇が望ましいし、目線を固定されているのは私だけではない。みんながスクリーンに向かって一列で座り、光が演出するファンタジーに意識を集中させる。その体験を他の人たちと空間的・時間的に共有する感覚こそがまさに映画を観ることであり、集団行為を前提にした個人的な体験なのである。

この空間の様子が崩れるのは、多分バーチャル・リアリティーの3次元で展開される物語に私たちが取り込まれるときだろう。しかしそれを私たちが映画と呼びつづけるか否かは定かでない。

]]>
母の〈孝道〉TV:世代間の情報格差が生み出す新しいビジネス[ペク・ソンス -2-] https://www.fivedme.org/2014/08/15/%e6%af%8d%e3%81%ae%e5%ad%9d%e9%81%93tv%e4%b8%96%e4%bb%a3%e9%96%93%e3%81%ae%e6%83%85%e5%a0%b1%e6%a0%bc%e5%b7%ae%e3%81%8c%e7%94%9f%e3%81%bf%e5%87%ba%e3%81%99%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e3%83%93%e3%82%b8/ Fri, 15 Aug 2014 00:48:00 +0000 https://www.fivedme.org/2014/08/15/%e6%af%8d%e3%81%ae%e5%ad%9d%e9%81%93tv%e4%b8%96%e4%bb%a3%e9%96%93%e3%81%ae%e6%83%85%e5%a0%b1%e6%a0%bc%e5%b7%ae%e3%81%8c%e7%94%9f%e3%81%bf%e5%87%ba%e3%81%99%e6%96%b0%e3%81%97%e3%81%84%e3%83%93%e3%82%b8/ 母の〈孝道〉TV:世代間の情報格差が生み出す新しいビジネス
My mother’s ‘Hyodo’ TV: To Get Over the Information Gap of Generations in Seoul

ペク・ソンス Seongsoo Baeg

「母のテレビを〈孝道TV〉に変えていい?」とソウルの妹から電話をもらったとき、私の頭をよぎったのは母が使っている〈孝道電話〉と〈孝道ラジオ〉だった。孝道(ヒョド)は、日本の親孝行の意味である。

ソウルに帰る私を迎えてくれるのは母とテレビだ。私は日本にいるあいだに見逃した韓国の番組を母のテレビでチェックしつつ、母のVOD(Video On Demand)リクエストにも応じる。母と私のささやかな共感の時間である。それが可能になったのも、テレビの進歩のおかげだ。

母のテレビは、放送とインターネットの融合で提供されるサービスに加入している。地上波放送と200チャンネルほどのケーブル放送が観られ、VOD、クラウドDVD、SNSのほか、オープンIPTV(Open Internet Protocol TV)も利用できる。しかもほとんどの機能が一つのリモコンで操作できる。

しかし母には、地上波といくつかのケーブルチャンネルで充分だ。利用しないサービスは使わずに済むのなら話は簡単だが、母の問題は、リモコンを間違って押していくと画面が理解できない状態で操作不能に陥ってしまうことである。こうなると、誰かが直してくれるまで母はテレビが観られない。そのため、家族が母を一人にして家を空けるとき、心配なのは留守番する母より母のテレビということになる。

そこで登場するのが、60歳以上が契約できる〈孝道TV〉である。余計な機能は何もなく、地上波とケーブル放送だけが利用できる。契約料も安い。シンプル・イズ・ベストなのだ。しかしそうなると、私は母と一緒にVODを観ることも、クラウドDVDを集めておくこともできなくなる。

韓国のメディアには、〈孝道〉ビジネスが存在する。急速なメディア発達に戸惑う年寄りたちを持つ子供世代に向けて、親が安心して使えるものをプレゼントしなさいというものである。性能がシンプルだから安く、その安さは子供にもうれしいだろう、と。メディアの発展論理に、しばしば人間は置き去りにされる。速度が速いほど、その流れからこぼれ落ちる人は多くなる。世代間の情報格差は広がる一方だが、またそこに新しいビジネスが生まれるのだ。

2013年、日本ではパナソニックがインターネットを融合させた新しいテレビを出したとき、民放各社がそのCM放映を拒否する騒ぎがあった。拒否の理由は、テレビにテレビ放送波以外の情報が表示されてはならず、テレビの画面に映るのが放送なのか、インターネットなのか区別できずに混乱を招くから駄目だということらしい。日本にはメディアの最先端技術がある。それを待っている視聴者もいる。そしておまけに、変化を好まない既存業界もある。

さて、〈孝道TV〉は世代間の情報格差に対する優しいフォローアップなのか、もしくは踏んだり蹴ったりの話なのか。それはまさしく受け手の解釈しだいである。

]]>
“One for All, All for One” – No Side of Choko Rugby[Seongsoo Baeg -1-] https://www.fivedme.org/2014/06/27/one-for-all-all-for-one-no-side-of-choko/ Thu, 26 Jun 2014 15:01:00 +0000 https://www.fivedme.org/2014/06/27/one-for-all-all-for-one-no-side-of-choko/ “One for All, All for One” – No Side of Choko Rugby
『60万回のトライ』〜朝高ラグビーのノーサイド

Seongsoo Baeg ペク・ソンス

At the Tokyo preview screening of the documentary film One for All, All for One there was great enthusiasm in the audience. About 500 people were in attendance, from gray- haired men to little children trying to escape their mothers’ laps. Almost all of them were “Zainichi”(Koreans who came to Japan before the 1980s and their children). They were searching for and reaffirming their own image on the screen.

This is a movie about a certain kind of youthfulness. Rugby players from Osaka Korean High School (Osaka Chōsen Kōkyū Gakkō, or Choko) are running on the dusty ground, discovering their limits by bumping their bodies into others, and growing up as a result. Their existence is affirmed by trusting in their parents, coaches and mates, raising their voices in joy after victories, crying in the locker room after defeat, bringing an erotic magazine into the hospital for an injured teammate. Their hearts are beating fast for a cute girl. Perhaps it is enough for the audience to laugh and cry together for a short while, putting aside their pasts and futures for now.

However, there are young people featured in this movie for whom the story doesn’t end with the closing credits. Their story cannot simply rely on rugby and a beating heart. Their time has been spent facing the discrimination, prejudice and antagonism that minorities are too often confronted with. There are now about 600,000 Zainichi Koreans living in Japan, and their history is a complicated one. The young people in this movie have found bonds with their distant motherland, yet they are judged for sharing the same blood of this land, and their ethnic independence causes them hardship in Japanese society. They are standing in the street to obtain signatures from supporters, and sitting at a press conference they welcome the politician’s hostile inspection.

The captain of the rugby team asserts that there is a “no side spirit” in rugby – “no side” traditionally refers to the end of a rugby match, at which point the teams are free to interact – and there should exist a “no side spirit” in society as well. For the Zainichi, who are always forced to make a choice between the ‘North’, the ‘South’ or ‘Japan’, and face abuse regardless, the space afforded them and their way of living should not be the result of that choice, but rather they should be allowed to coexist, just like in the “no side spirit”. At the very least, their school should be such a space.

These problems are common for other minorities around the world, not just for the Zainichi. Therefore, this movie can be seen as one that exposes ethnic conflicts and seeks a solution, and a movie that is asking universal questions about racialism in the world today. It is also worth looking at the producers of this film. It is not easy for people who are unfamiliar with the modern history of Korea and Japan’s relationship to understand the significance of a film being directed by a South Korean, Park Sa-yu, and a third generation Zainichi, Park Don-sa about Osaka Korean High School’s rugby team, and having Japanese people produce, edit, score and distribute that film. In any case, it is certain that audiences will be absorbed during their time with Osaka Korean High School’s rugby team.

After the March screening in Tokyo, the film began touring areas like Osaka, Nagoya and others. At small and independent theaters in each area, one can see the coming together of people who live as minorities, and this will create a space for the Japanese and Zainichi who want to coexist. This movie also received the “CGV Movie Collage” prize at the Jeonju International Film Festival and will screen in CGV movie theaters in Korea from August, bringing the story of the Zainichi into the spotlight for Korean people.

One for All, All for One (2013)
Director: Park Sa-yu, Park Don-sa
Produced by Koma Press, the 600 thousand Try Committee

]]>