きわどい日々との踊り方
How to Dance with Crises

高橋聡太 Sota Takahashi

駅前の街頭演説に集う人々の熱気にふれ、テレビの報道特番で選挙結果を知り、ネット中継で杜撰な議論のすえに法案が可決されるのを目にするたび、もう何度も閉塞感にうちひしがれてきた。SNSをつうじて自分と同様の不安を抱く人々と意見を交わしても、電車内の中吊り広告にひしめく週刊誌の下劣な煽り文句がささやかな安堵を台無しにしてしまう。デモに参加すれば実際に多くの人々と足並みを揃えて反感を示すこともできるが、得てして個人攻撃に陥りがちなシュプレヒコールや、時おり警官に浴びせられる口汚い言葉には、かえって協同の困難さを思い知らされる。デモの規模が膨らんでもなお声が届かない現状にも無力感が募るばかりだ。

東日本大震災後に様々な問題が山積していく日本では特に顕著だが、こうした八方ふさがりな心情は、おそらく世界中で何度も繰り返し経験されてきたのだろう。そして、そのたびに人々は芸術が政治にどう関わるべきかを問い続けてきた。

とりわけ日本のポピュラー音楽においては、チャートの上位を占める夢や恋愛をテーマにする音楽と、現実の厳しさを歌う様々なスタイルの草の根的な音楽を対立させる議論がしばしばなされる。もちろんこの図式は不十分である。どれだけ言葉を尽くしても、前者が後者を真面目くさったものとして、後者が前者を脳天気すぎるものとして、互いに唾棄しあうだけの水かけ論に終始してしまうからだ。AかBかの選択をつきつけて視野を狭くする構図は、そのまま政治運動における右左の対立と相似形を成すと言えなくもない。では、どうすればよいのか?

かつてロック・バンドの〈ゆらゆら帝国〉に在籍し、現在はソロ名義で自身のレーベル〈zelone records〉から面妖な楽曲を世に送り出しているミュージシャンの坂本慎太郎は、2014年5月に発売した新アルバム『ナマで踊ろう』で、無視か抵抗かの息苦しい二元論にやわらかだが致命的な一石を投じた。現代から生まれた閉塞感と無力感を、滅亡に瀕した近未来世界の寓話に託して歌った本作は、AでもBでもない方法の一例を示した稀有なアルバムである。新興宗教、プロパガンダ、環境破壊につながる大事故など、アルバム内の各楽曲で取り扱われている問題自体は取り立てて新しいものではない。しかし、具体的な事象にもとづき権力を肉声で糾弾する多くのプロテスト・ソングとは異なり、坂本は小難しい専門用語や固有名詞を排し、小学生でも理解できる簡単な語彙をつむぐことにより、ありとあらゆる最悪な事態の輪郭そのものをきわめて具象的に浮き彫りにしていく。

また、伴奏にハワイアンで用いられるペダル・スティール・ギターや、ラテン音楽に欠かせない各種のパーカッションなど、異国情緒あふれる享楽的な意匠が通底していることも興味深い。この源流は、1950年代末に流行した「エキゾチカ」と呼ばれる様式にある。南洋の島々をはじめとするトロピカルな観光地の音楽とジャズを融合させたエキゾチカは、当時の家庭向けレコード技術とジェット機による航空網の発達を背景とし、高音質な再生装置さえあれば自宅にいながらにしてより身近になった南国のムードを味わえる音楽として人気を集めた。時代遅れで快楽主義的なエキゾチカは今日のヒット曲ともプロテスト・ソングとも無縁だったが、坂本はこれを遠いようで近い異郷へと聞き手をいざなうためのサウンドに取り入れたのである。

『ナマで踊ろう』でひもとかれる来るべきディストピアの物語は、誰もが用いるシンプルな言葉で描写されているがゆえに否応なく現在進行形の危惧と結びつき、手も足も容易に出せない現状の困難さを、過去からやってきたゆったりと気だるい楽園の音楽にのせてするりと嚥下させてしまう。エキゾチカ流行の背景となった1950年代の国際化が冷戦の激化によってもたらされたものであったように、作品の内外で様々な時間軸を往来しつつ現代の生を肯定も否定もせずにたんたんと描写する本作もまた、1950年代の核エネルギー技術が2011年にゆさぶられて遠い未来の命運を左右し、現政権の所業が不用意に戦前の全体主義と結びつけられてしまう昨今の混乱と無縁ではない。凄絶な事態から目を背けるのでもなく、打開策をもとめて無闇にあがくのでもなく、現実を見据えつつ悲観と楽観のあいだでどっちつかずにゆらゆらと踊り続けることも、今日を生きるひとつの手段なのだ。

坂本慎太郎〈スーパーカルト誕生 (Birth of The Super Cult)〉

坂本慎太郎プロフィール(zelone records)

Shintaro Sakamoto Profile(Other Music Recording)