お役所的「最低限度」のあいまいな輪郭
The Vague Border at the Bureaucratic “Minimum Standards”

高橋聡太 Sota Takahashi

役所に行くのはいつだって気が重い。ちょっとした手続きでもこちらの不備ひとつで門前払いをくらうこともあるし、お仕着せの手順をなんとかこなしても、混雑度によっては相当に長い待ち時間を耐えなければならない。こうした手続き上の煩雑さはもとより、自分には何をやらされているのか一向に判然としない書面のやりとりが、役所内を右往左往するうちにすれ違う様々な世代や国籍の人々の暮らしを成立させていることの不可解さに打ちのめされ、なんだか途方に暮れてしまうのである。

小学館の青年漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』にて連載中の『健康で文化的な最低限度の生活』は、そんな役所の窓口をはさんだ内側と外側、つまり公務員と市民の関わりをとりあげた稀有な作品だ。生存権を規定する日本国憲法第25条の条文から引いたタイトルが示す通り、本作の主題は困窮する人々に手をさしのべる公的扶助=生活保護である。作者の柏木ハルコは綿密な取材を重ねて、えてしてネガティヴな印象ばかり先行しがちなこの制度の実態を、受給者たちの支援や査察を行うケースワーカーと呼ばれる職員の視点から克明に描いている。

主人公の義経えみるは、どこか気の抜けた自身の性格に悩む20代の女性だ。これといった目的意識もなく公務員試験に合格した彼女は、区役所の福祉事務所の生活課に配属され、ケースワーカーとして働くことになる。生活保護はあくまで臨時の支援制度であるため、受給希望者が切に公的扶助を必要としているのかを慎重に判断し、福祉事務所での面会や自宅訪問などの査察を何度も重ねながら、彼らが独力で生活ができるまでの手助けをしなければならない。こうした受給者たちの支援や査察がケースワーカーに課せられた仕事だ。

つい数日前まで窓口の外側にいた彼女のもとには、配属直後から給付金の振込や受給資格の審査に関する煩瑣な問い合わせが容赦なく舞い込み、ケースワーカーになることなどまったく想定していなかったヒロインを翻弄する。審査の基準や必要な手続きの詳細は、作中の平易な解説を読んでもなお難解だ。複雑きわまる制度が、受け手だけでなく行使する側にとっても得体のしれぬ負荷となって否応なくのしかかる様子は、さながら不条理小説のようである。ぼう漠としたヒロインの心情はよそに、配属直後の彼女に任された生活保護受給世帯の数は百件超。各々ぬきさしならぬ事情で危機にさらされた生活の重さが、右も左も分からぬ彼女の頼りない双肩にのしかかる。その重圧を想像し、何度もページをめくる手が止まった。

しかし、なかなか制度に馴染めないヒロインの朴訥とした性分には同時に希望も秘められている。物語の序盤、自死を選んだ独身男性受給者のアパートを、彼女が部署の上司とともに訪れるシーンがある。過去に何度か同じような状況に遭遇したであろう上司は、新人ケースワーカーである彼女のショックをやわらげるべく「1ケース減って良かったじゃん」と言うのだが、彼女はそんな先輩の声をなかば聞き流しつつ、初めて目の当たりにした受給者の生活環境に瞠目する。ここで作者は、用途によって細かく整理整頓された書類ケースや、小さな机の上に置かれた恋人と思われる女性との2ショット写真など、せまい和室ひと間のディテールをヒロインの視線をなぞるように丹念に描き出していく。受給者が限界を迎えるまで着実に重ねてきた生きる努力の痕跡を目の当たりにした彼女は、業務に慣れきってそれらをほとんど視認しなかった上司の心ない言葉を、胸中で静かに否定するのである。

本作が焦点を当てる人間模様は誰にとっても決して対岸の火事では済まされない。しばしば議論からこぼれ落ちる第一線のケースワーカーの葛藤と、ややもすれば「自己責任」の一言で切って捨てられる受給者の実情を知ることは、セーフティネットの拡大や不正受給の是正といった生活保護をめぐる諸問題だけでなく、官僚制機構の末端で生きることそのものについて考える端緒となるはずだ。その切実で重苦しい内容とは裏腹に、2014年夏に発売された本作の単行本第1巻の表紙を飾ったのは、花びらが舞うなか新しい仕事場へと向かうヒロインの上気した表情である。その頬はすべての人間にかよう血潮であざやかな桜色にそまっている。