科学家のテラス 6
Reflections from an Amateur Scientist 6

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

▼ドライ・ラボのグローバル化!?
工学部時代の話を続ける。私はウェット・ラボとの併任を解かれ、ドライ・ラボの「専従メンバー」になった。まあメンバーといっても、学生はあと一人、例のワークステーション〈アイリス(IRIS)〉 ★1のメンテナンスをしていたM2★2のHさんだけだった。彼は物静かな人だったが、ソフトウェアの知識とスキルには驚嘆すべきものがあった。今も思い出すのは、IRISを購入した会社からサポートに来る、とても痩せたSEのお姉さんと、Hさんが小さな声で話し込んでいる姿だ。そのときの彼が一番生き生きとしているように見えたからだろう。私もシステムについて困ったことがあると、いつも彼を頼った。彼は消え入るような小さな声で、しかし非常に的確なアドバイス★3をくれた。私は彼を尊敬していた。

そんなHさんと教授、そして私の3名は、週に一度、土曜日の午前中、ドライ・ラボのコロキウムを始めた。元々、簡単なミーティングはやっていたが、私が「専従」になったことも影響してか、本格的な研究会が始まったのだ。教授はいつもハイテンション、Hさんはいつもローテンション。発話量は常に教授が圧倒していた。彼は身振り手振りでさまざまなアイデアを喋る。するとHさんがぼそっと一言、返す。教授は一瞬ひるむ。だがすぐに、別のアイデアを語りだす。またHさんが小さな声で何かを言う。教授が考え込む……そんなやりとりをぼーっと観戦していると、「で、カミサト君は、どう思うかね?」と急に突っ込まれたりする。私は「いやあ……」と、口ごもる。心の中では「そんな、行司★4なんて無理ですよ」とつぶやいていた。

しかしまもなく、もっと驚くべきことが起きた。海外からポスドク研究者、Aさんが来ることになったのだ。彼はモスクワ大学★5で博士号をとった、ニューラル・ネットワーク★6の研究者だった。当時、すでに「ベルリンの壁★7」は崩れており、東側諸国では体制変化の連鎖反応が起きていた。その、まさに「ボスキャラ」であるソビエト社会主義共和国連邦は、末期的な混乱状態にあった。Aさん一家は、混乱を避けるためにつてを頼り、日本に避難して来たのである。彼はアルメニア★8人で、奧さんはロシア人の小児科医。娘さんは幼稚園くらいだったと思う。そしてソ連はAさん一家が日本にいる間に消滅した。

ともかく、ドライ・ラボに彼が加わったことで、週一回のミーティングは英語で行われることになった。私は英語が不得意だから、週末が近づくたびに憂鬱になった。教授は英語には特に容赦なかった。私は辞書とくびっぴきで用意したレジメをおどおど読み上げるのだが、彼はイライラしながら私の発音をひっきりなしに訂正する。今でも「酸」の”acid”のアクセントの位置を間違えて、こっぴどく叱責されたことが忘れがたい。そうやって自分の番が過ぎると、あとは必死に議論に耳を集中させる。しかし、そもそも教授とAさんの語る内容はハイレベルな上に、英語での議論だから、正直、もうサッパリ分からなかった。ウェット・ラボを事実上「落第」した私だったが、ドライ・ラボの「急速なグローバル化」によって、私は再び窮地に陥ったのである。(つづく)

Endnote:
1 「科学家のテラス1」を参照のこと。

★2 修士(Master)課程2年のこと。「えむに」と発音する。同様にD3(でぃーさん、博士課程3年)などと言う。

★3 知的な空間を設計する上で最も大事なのは、人と人の距離の設定であろう。何か疑問が生じたとき、その問いに答えられる人がそばにいるかどうか。また新しいアイデアが浮かんだとき、そのアイデアの価値を理解できる人とすぐに議論できるかどうか。当然、「直接の」コミュニケーションが理想であるから、独立性の高い個室の集合体では交流が阻害される。逆に、日本企業で一般的な「大部屋」では、個人は集中力を発揮できないだろう。つかず離れずの距離感が、クリエイティブな作業には大切である。

★4 「行司」には必ずしも経験や知識が必要とは限らない、と今の私なら考える。だがそう思えるようになったのは、経験と知識が増えたから、というパラドクスがある。教育は難しい。

★5 1755年に科学者ミハイル・ロモノーソフ(1711-1765)の提言で設立されたロシアの代表的な大学。正式名称は「M.V.ロモノーソフ・モスクワ国立総合大学」という。自然科学系、特に数物系に強く、これまでにノーベル賞やフィールズ賞の受賞者を多数、輩出している。ソビエト連邦最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフ(1931-)も卒業生である。

★6 コンピュータは、一定の算法で高速・大量に処理を行うといったことは得意だが、形態的特徴からモノを認識したり、対象を掴んで動かすなど、生物ならば比較的容易にできる作業を行わせるのは、意外に計算量が膨大になって難しい。そこで、脳の仕組みを参考に、コンピュータの中で神経回路のメカニズムを模倣して学習機能を持たせ、問題を解決しようとするアプローチが構想された。この考え方自体は古く、第二次大戦中から知られているが、技術的課題も多く、途中、研究の停滞期もあった。だが近年、「ディープ・ラーニング」の登場などで、再び注目を集めている。

★7 1989年8月、私は「チェックポイント・チャーリー」からこの壁を越えて東ベルリンを訪問した。その3ヶ月後、壁は崩れた。歴史は意外に簡単に動くものなのだな、と思った。

★8 カスピ海の西部、アゼルバイジャンとトルコの間に位置する共和国。歴史は古く、世界で初めてキリスト教を国教とした国として知られる(西暦301年)。これはローマ帝国より早い。その後、周囲の大国の侵攻で国土は荒び、多くのアルメニア人は故郷を捨て「ディアスポラ」となった。20世紀に入ると、ロシア革命の後、アルメニア民族運動によってアルメニア第一共和国が成立したが、程なく赤軍の攻撃によりソビエト連邦に併合される。1991年、ソ連崩壊により独立国「アルメニア共和国」となり、現在に至る。