うなだれ続ける宿命を背負って
Accepting the Fate of Having to be Ashamed
帰省中の宴席でのこと。しばらく音信不通だった親戚のおじさんが突然連絡をよこし、金まわりのよさを自慢している……という話でもりあがった。50代も半ばのおじさんは、過去にも何度か妙な儲け話に手を出しては失敗している。どうせ今度の景気もそう長くは続かないだろうと茶化す一同。ところで、今度はどうしてまた急に羽振りがよくなったのか。そう疑問を投げかけると、「福島で除染の仕事をしているらしい」との声がぽつりと返ってきた。それから自分がどう言葉を継いだのかは、よく覚えていない。
福島第一原子力発電所の事故以降、筆者は自分なりの判断で原発に反対する立場をとってきた。デモに参加して「再稼働反対」の声を挙げたことも一度や二度ではない。しかし、昔からよく知っている親類の人生が原発と結びつき、その切実さがどれほど身近に迫っていたのかを初めて痛感した。現場との距離感に無自覚なまま望遠鏡で火事場を眺めていたら、いきなり自分の肩に火の粉がふりかかってきたかのようだった。
自身の無知に恥じ入り、おじさんのことを日々悶々と考えていた折、文筆家としての顔も持つピアノ弾き語りの音楽家・寺尾紗穂が2015年6月に上梓した『原発労働者』を手にとった。本書は、世間の注目が一挙に集まった事故前後の緊急時ではなく、安全に稼動していたとされる平時の原発に焦点を絞り、そこで働く人たちの仕事ぶりに迫った一冊だ。科学者や政策決定者たちが立脚する大局的な視点ではなく、発電所の末端で働く人たちの目線から、ボルトの締め方といったレベルで原発労働の実態を伝える筆致に、思わず息を呑む。
証言者たちの業務内容は多種多様だが、その苛酷さはいずれも想像を絶する。厳しい労働条件と引き換えに得られる多額の報酬は、しばしば被曝対策の細やかな規定を度外視したリスクの高い業務へと労働者たちを駆り立てる。彼らの多くは眼前の仕事をこなして苦役から逃れることに精一杯であり、原子力が社会や環境に及ぼす影響どころか、自身の健康にも配慮が及ばぬほど近視眼的な状況に置かれてしまう。ごく少数の実例が克明に描写されるぶん、彼らの周囲に依然として広がる、いまだ証言されざる原発労働の闇の深さを思い知らされる。そこには、除染のような原発外での間接的な業務も含まれるだろう。
さらに本書では、各証言者が原発労働に従事するまでの経緯とともに、著者の寺尾自身がこの問題に関心を抱くまでの私的な物語が正直に綴られる。その過程で著者が実感として訴えるのは、巧妙に不可視化された原発労働が、現代を生きるすべての人の暮らしと密接につながっているということだ。そのことを自覚した上で、寺尾はこう提案する。
「原発推進、反対を問わず、そこで生み出された電気を使ってきた者がまずしなければならないのは、彼らを国の英雄と祀りあげることなどでなく、「原発を動かしてきた」のは本当は誰であるか真摯に考え、うなだれることではないだろうか」
とはいえ、おじさんのことを知った自分には偶然にも「うなだれる」きっかけがあったが、見知らぬ他者の労苦に想像力をめぐらせることは容易ではない。長く入り組んだ歴史を持つ巨大な制度であれば、尚更その時空間的な広がりを把握するのは困難である。だからこそ、無関心に屈してはならない。寺尾は、われわれを否応なく組み込む国家的装置として原発を戦争と類比しているが、奇しくも本書の出版後の夏に、安倍晋三は戦後70年談話にて「あの戦争には何ら関わりのない」次世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と発言した。このような分断に抗うためにも、時空を隔てた他者の声に耳を傾けて、親身に痛みを分かちあう力がますます求められるだろう。