科学家のテラス 11
Reflections from an Amateur Scientist 11

神里達博 Tatsuhiro Kamisato

「大人の事情」と研究継続の行方
人間とは不思議なもので、しばしば、相反する気分を同時に抱えながら生きている。この連載を書くことで、私は当時の矛盾★1した気分と、四半世紀ぶりに向き合うことになってしまった。

そういうわけで、前回予告していた、「事件」である。重要なできごとは、いつだって突然やってくる。まだ記憶がはっきりしないのだが、それは少なくともアルメニア人研究者のA氏が来るよりもかなり前のことだった。ある日、私は同じ学科の友人とピロティー★2でどうでもいい話をしていた。するとそこに、研究室の先輩がやってきて言った。「カミサト君、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」。それまで私はこの先輩とほとんど話をしたことがなかった。

「なんでしょうか?」「ああ、ちょっと、こっちで」

彼は人があまりいないところに私を引っ張っていった。そして、一呼吸おいて、話を始めた。

「ごめんね。あのさ、ウチの研究室が今後どうなるか、知ってる?」「いえ。何かあったんですか?」「まず、いずれ教授が定年になるのは、知ってるよね」「はい」「そうすると、どうなるか分かる?」「誰かが後継の教授になるんですかね?」「まあそうだけれど、その時に、ここの研究テーマは大きく変わることになると思う」「そうなんですか?」「そう。だから、今の研究を続けられる人と、そうでない人がでてくる。カミサト君は、コンピュータ・シミュレーションとか、生物物理★3みたいなことをやりたいの?」「はい。今やっているようなことが面白くて」「そうですか。いや、残念だけどね、そういうのは、続けられそうにない、と思う」「えっ! でも教授はそんなことは、言ってませんでしたが」「そうかもしれない。なんというのかな……」

そう言ってこの先輩はかなり詳細に、この研究室に関する「大人の事情」を説明してくれた。当時の私はまだ、アカデミズムというのは、やはり純粋な知のアリーナ★4であって、通俗的な利害関係★5などとは切り離されたところで、粛々と研究が進んでいる、というようなイメージを持っていた。もちろん、研究の世界にもある種の「政治」があることはなんとなく感じていた。しかし、どう考えても今後伸びるであろう、生物学と情報科学が重なるこのテーマが、研究室において継続されないことになるとは思いもよらなかった。ナイーブといってしまえばそれまでだが、私がその瞬間、大学やアカデミズムの世界にかなり失望したのは間違いない。

「とにかく今後については、よく調べて、よく考えて決めた方がいいよ。重要な選択だから」彼はそう言って、去って行った。

私はすぐに教授に相談すべきだったのかもしれない。が、私はためらった。結局、その問題を保留したまま、私は学業を続けることになる。一方で、すでに本連載で述べてきたように、その後はA氏も登場し、研究自体は面白くなっていったのである。この研究室に残るという選択肢は、事実上、ないにもかかわらず。いったい私は何を考えていたのか。

私の人生における、最初の決断の日が迫っていた。(つづく)

Endnote:
1 言わずと知れた『韓非子』に基づく故事。漫画『パタリロ』では、いかなる物も貫く矛と絶対に破られない盾をパタリロが発明し、両者がぶつかった結果、遠い昔にビッグバンが起きたため、この宇宙が生成したのだ、という矛盾したエピソードが登場する。

★2 2階以上の建物の1階部分において、壁をなくして人や物が通りやすくした構造のこと。見通しや風通しが良い。1995年の阪神淡路大震災では、壁がないために耐震性に問題があるケースが認められたが、2011年の東日本大震災では、津波に対する一定の優位性が確認されている。

★3 生命システムを、物理学の手法で理解しようとする学際分野のこと。生物物理は、分子のレベルから、生体組織、さらには生物群に至るまで、幅広いスケールをカバーしている。「科学家のテラス2」で触れたとおり、筆者が学んでいたのは”bioinformatics”のはしりであったが、まだそんな言葉はなかったので、「生物物理」と呼ばれることも多かったと思う。ちなみに、”biophysics”という言葉を最初に使ったのは、英国の統計学者にして優生学者のカール・ピアソン(1857-1936)である。彼は、より素朴な意味で、物理学や数学の言葉で生命現象が記述できると確信していた。その延長線上に起きる悲劇を、彼がどれだけ予想し得たかは、判断の分かれるところではあるが。

★4 近代科学は、キリスト教的な知をベースとした、自然への理解に対する情熱と敬意に始まった知的営為である。当初は上流階級を中心に進められた科学研究も、制度化されるにつれて徐々に俗化していく。その結果、信仰上の動機と自然科学ははっきりと切り離されていくのだが、今でも科学研究は、世俗とはちがう価値基準で営まれているという「イメージ」は残っているように思われる。それは、ノーベル賞受賞者に対してある種の人格的な敬意が社会的に保たれていることにも、表れているのではないだろうか。しかし現実の科学の在り方は、現代においては、大いに変化し、かつてのような「自然界の理を追究する純粋な営為としての科学」というモデルだけでは、実態を表現できているとは到底いえないだろう。

★5 最近、研究者の利害関係に関心が集まるようになっており、「利害相反」の問題として一般に認知されつつある。定義は色々あるが、「ある人格が、関わりのある他者に対してなんらかの判断を行う際に、その判断を適切に行うことを阻害するような利害関係を持っている状態のこと」というのが一般的な理解であろう。例えば、ある薬品メーカーが開発している薬の臨床試験に関わっている研究者が、そのメーカーから研究費を貰っている、というような「状態」のことである。研究者が社会のために働くことは今や当然のことであるが、それによって、利害相反が複雑に生起するようになったのも事実である。研究者のアウトプットの信頼性を保つために、どのような仕組みが適切か、今まさに、議論が進んでいるところである。これもまた、「純粋な研究」という概念が過去のものとなりつつあることの証左であろう。